佐渡島

2009年6月27日

小木から直江津へ

群馬へ帰るという日に智光坊~蓮華峰寺~海潮寺~矢島・経島と 回って観てきました。

佐渡最南端の 「沢崎鼻灯台」 を巡るコース、羽茂の小泊から素浜、小木の大浦、田野浦、沢崎鼻、深浦、宿根木、小木港と約23kmを走れば、佐渡島を一周することになるのです。

しかし、沢崎鼻灯台方面は昨年8月の帰省で回っているので、佐渡最南端のコースは省きました。

午前10時20分、小木港を出港したカーフェリー こがね丸 は、一路直江津港へと向かいます。 

 <カーフェリーこがね丸の船上から城山公園方向を摂る>
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こがね丸の甲板に上がって、遠ざかる小木の入り江を眺めました。

小木には「内の澗(ま)」、「外の澗」 があり、出船千艘・入船千艘で賑わった港といいます。

小木おけさに
 ♪ 小木の入江も静かに暮れて とまり船より立つけむり
 ♪ あかね眺めについ乗りおくれ またの船待つ小木港

乗客からの餌を求めてカモメが、カーフェリーを追って飛んできます。

  <餌を求めて飛び交うカモメ と「イルカ」のモニュメント>
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船内に戻れば、沢根出身の芸術家宮田亮平(現東京芸大学長)氏のモニュメント 「イルカ」 があります。

季節によっては航行中の船と一緒に泳いでいたのを思い出します。 また、夏の帰省では、トビウオが飛ぶ姿も懐かしい思い出です。

船内の売店で買った 『新・にいがた 「歴史紀行」』 を読み進むうち、直江津港に入りました。

小木ー直江津間のカーフェリーの所要時間は、2時間30分です。 

   <直江津港の赤い灯台と港内で行き交う貨物船>
360362_2  <佐渡島紀行文(完)>

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小木の「矢島・経島」

四所五所桜がある海潮寺の山門前の坂道を下ると、「矢島・経島」 の海岸に出ます。

ここは私の好きな観光ポイントの一つです。 友達を連れてきたときは必ず立ち寄る景勝地です。

<浪曲佐渡情話「お光の碑」と矢島・経島へ通ずる太鼓橋>
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朱塗りの太鼓橋は撮影ポイントです。 
太鼓橋の根元で透明な海の中を覗いていたら、ウミウシが動き出し 「爺さんよく来たなぁ」 というように背伸びをしました。 愛嬌者です。

太鼓橋を渡った手前の岩山が「経島」です。 
昔、日蓮の赦免上を持参した日朗 が、3月7日の夜に難破にあい、この岩の上で一晩中読経したことから、経島と呼ぶようになったといいます。

経島と続く「矢島」は、矢竹が採れたことからその名が付いたといわれています。

ここでも、源頼政が怪物鵺(ぬえ)退治をした弓の矢竹が、ここ矢島で採れたものという伝説が残ります。

今は採りつくされて矢竹はないといいますが、
唯一、矢島に残る元農林大臣山本悌二郎(1870~1937)の元別荘の天井に飾りが見られるといいます。

  <記念撮影ポイントの太鼓橋と背伸びをするウミウシ>
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静かな入江は透明度抜群です。 子供が小さい頃この海で泳ぎながらベラ釣りをした思い出があります。

また、友達とたらい舟に乗ったとき、櫂の漕ぎ方が旨いと褒められたことがあります。
しかし、私が漁師のせがれだということは打ち明けていません。

     たらい舟 漕ぎだす沖へ 蝉しぐれ   昭一

友達と、たらい舟に乗っていて詠んだ思い出の一句です。

  <矢島・経島の静かな入江と観光客が乗るたらい舟>
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外海府方面では咲いていなかったイワユリが、ここ南海岸の小木は暖かいのでしょうか、可憐なイワユリが咲いていました。

   <荒々しい岩肌から顔を出して咲く可憐なイワユリ>
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2009年6月26日

小木・海潮寺

小木へ来て回って見たいと思っていたのが、順徳上皇お手植えの桜がある四所五所桜で有名な「海潮寺」です。

海潮寺は小木の名所 「矢島・経島」 へ行く途中にあります。 これまで海潮寺の前は何度も通っていますが寄ったことがありません。

山門をくぐると、本堂に向かって石畳が伸びています。 その中間を過ぎると、柵に囲まれて「五所桜」がありました。

     <旧小木町元小木にある海潮寺の山門>
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佐渡おけさに
  ♪ 佐渡の岬の四所五所桜 枝は越後へ葉は佐渡へ

若いころは「五所桜」を知らずにおけさを歌っていましたが、順徳上皇お手植えの五所桜が、ここ海潮寺にあったとは知りませんでした。 

お手植えの桜は「サトザクラ」といいます。
「花は白く匂いをはなち、黄芽から一葉と八重が混じり咲き、花弁の先端が不規則に細裂する珍しいもの。」 といいます。

現在の桜は、根から芽が出た“ひこばえ”といい、国の天然記念物に指定されています。 

桜の見ごろは、4月の末から5月の初めころといいます。
帰省チャンスがあれば、桜の咲いているところを観たいものです。

 <順徳上皇自らのお手植えと伝えられる「サトザクラ」>
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海潮寺は、佐渡金山奉行大久保長安の家臣である原土佐が建立した菩提寺で、はじめ東泉寺と称したが寛文4年(1664)ころ、梵音山海潮寺となったといいます。

静かな境内では、怖い顔をした石像が五所桜の方を向いて、にらみをきかせていました。

<海潮寺の本堂(左)と境内でにらみをきかせる石像(右)>
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2009年6月25日

小木・蓮華峰寺(続)

弘法堂前の坂を下ってくると、天保15年(1844)建立の「密厳堂」の前に来ました。

密厳堂は、智光坊を建てた 村山村の高野甚左衛門といいます。

密厳堂から「小比叡神社」に来ました。 山王宮、白山宮、天満宮を祀る本殿と石鳥居は、国の指定重要文化財です。

 <密厳堂(国の有文・左)と小比叡神社(国の重文・右)>
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小比叡神社から東へ回ると、
応永年間(1394~1428)の建立(推定)といわれる 入り母屋造りの「金堂(国の重文)」の前に来ました。

その金堂から南へ一段下った所に「唐門」があります。 唐門の横には四面七段の願掛け地蔵尊が並んでいます。

地蔵尊の後方には、スイレンが咲き始めた池があります。 池中央のあづまやから眺める「客殿」は見応えがあります。

また、客殿の前には樹齢600年という雄の大イチョウがあります。 案内によれば、切り口には17種の宿木が寄生しているといいます。
私の目が届くところでは、サクラが1本生えていました。

    <唐門(国の重文・左)とスイレンが咲く池(右)>
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唐門をくぐると左手に、間口14間(25,2m)、奥行き9間(16,2m)の入り母屋造りの「客殿」があります。

中を覗くと、三つ葉葵の御紋が付いた横幕の上に、「小比叡山」と書かれた金箔文字の額が架かっていました。

  <静かな池から大イチョウと客殿(国の有文)を摂る>
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時計と反対回りに見て歩いています。 最後は仁王門に来ました。

一対の金剛力士像は、いずれもケヤキ材を使用し、制作時期は鎌倉時代(14世紀前半頃)と推定されるといいます。

朽ちたような歴史ある金剛力士像は、新潟県指定の文化財です。

 <仁王門(国有文)と金剛力士像(吁形(中)・阿形(右)>
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蓮華峰寺はアジサイ寺とも呼ばれています。 訪れたのが5月25日でした。 今ごろアジサイは見ごろを迎えていることでしょう。

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2009年6月24日

小木・蓮華峰寺

倉谷の智光坊から砂金で有名な西三川、羽茂に入って小泊、村山を過ぎると、国道350号の左手に「小比叡山蓮華峰寺」があります。

佐渡は京都の鬼門にあたることから王城鎮護の霊場として、空海によって開かれたといわれています。

杉木立の広い境内のあちこちに、国の指定重要文化財や国の有形文化財が点在しています。

  <三つ葉葵の御紋が付いた横幕のある入り口の門>
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入り口の門をくぐると、坂を下る石段があり仁王門へと続きます。
その石段を下りずに右手の参道を歩いて観て回りました。

山深い境内にひと際目立つ朱色の「八角堂」があります。 銅板葺き屋根の八角堂は、江戸中期の建立といいます。

八角堂から参道を挟んで弘法大師像が建つ後方に、木造二階建て銅板葺の「鐘楼堂」があります。 

   <八角堂(国の有文・左)と鐘楼堂(国の有文・右)>
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八角堂の並びに「霊廟」が、鐘楼堂の横には「経蔵」とその並びに「八祖堂」、「骨堂」があります。

銅板葺の八祖堂は、江戸中期の建造物と言われ、茅葺屋根の骨堂は新潟県下最古の建造物といいます。

    <八祖堂(国の有文・左)と骨堂(国の重文・右)>
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坂を下ると「弘法堂」へ続く参道に架かる石造りの橋、「無明橋」があります。

長さ4,1m、幅員1,6mの石橋(33枚)の橋石の裏には三十七尊の梵字が刻んであるといいます。
また、徳川末期までは女人の通行は禁止であったといいます。

慶長14年(1609)建立という弘法堂は、室町時代の造風が見られ、堂内には弘法大師座像が安置されているといいます。  つづく

   <無明橋(国の有文・左)と弘法堂(国の重文・右)>
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2009年6月23日

真野・智光坊

今日は群馬へ帰る日です。 佐渡へ来る時は関越自動車道を新潟へ出て、新潟港から佐渡の両津港に着きました。

帰りは佐渡小木港から直江津港を経て、上信越自動車道で帰ろうと国道350号を小木に向かって走りました。

真野倉谷の集落に来ました。 国道右手の狭い道を海側へ300mほど下ると、倉崎山智光坊があります。

佐渡百選にも選ばれている智光坊には、見事な彫刻があると聞いて立ち寄りました。 

      <智光坊山門(左)と山門上の彫刻(右)>
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倉崎山智光坊の案内には、
「新義真言宗蓮華峰寺末寺、本尊: 千手観音。 宝暦年代の寺社帳によれば、大同3年空山を開山とする。

江戸時代の御朱印地で、「不動さん」を管理。 境内の金毘羅権現は天保4年(1833)8月、棟梁の村山村 高野甚左衛門によって建立。

外面の四隅及び柱の簗上に〈竜〉を描き、〈天女・虎・麒麟・鳳凰・獅子・松・水草〉などを配置し、精巧な建築美を現わしている。」
と、記されています。

      <智光坊本堂(左)と本堂上の彫刻(右)>
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   <金毘羅権現堂(左)と権現堂正面上の彫刻(右)>
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 <権現堂正面上の彫刻(左)とお堂側面上の彫刻(右)>
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カーフェリーの出港時間もあり、ゆっくり鑑賞することができません。
次に見学予定の旧小木町の古刹 「小比叡山蓮華峰寺」 に向かいました。

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2009年6月22日

鶴子銀山と山師の墓

佐渡の銀山では最も古いといわれている「鶴子銀山」は、生家から北西へおよそ5kmの所にあります。

今人気のNHK大河ドラマ 「天地人」 の主人公 直江兼続 がゆかりの地、「鶴子銀山」を訪ねてみようと出かけました。 

  ♪ 鶴が舞います鶴子の山で お山ご繁盛と舞い下る

佐渡おけさにも歌われるように、一時期は盛況を呈し、鶴子千軒と呼ばれるほど賑わった所といわれています。

山道を走ってT字路に突き当った所で、「鶴子床屋跡」 の案内が出ていました。

  <別名「金糞平」とも呼ばれる「鶴子床屋跡」の案内>
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その案内によれば、
「ここは精錬所が置かれた場所で、鉱滓(かなくそ)が大量に見つかることから、金糞平(かなくそたいら)とも呼ばれる。
 
また、嘉永元年(1848)に佐渡防衛のため、沢根の初代本間琢斉によって大砲鋳造が行われた場所でもある。」 と記されています。

沢根五十里の 「励風館」 には、初代本間琢斉の碑があります。

鶴子銀山へ続く道を歩こう!」 と案内に出ていたので、500mほど歩いてみましたが銀山跡はほど遠く、諦めて山を一つ越えた西野の集落に向かいました。

西野の集落には、生家の菩提寺 「吉祥寺跡」 と 「金北山神社」 があります。

吉祥寺跡は、昨年の8月に一度来ています。 入り口の丸坊主だった石仏は、赤い帽子をかぶせてありました。

また、今回は石仏の横にあるお堂に初めて入ってみました。 
堂内の厨子には諸仏をまつり、前の壇には十王像と思われる仏像が安置されていました。  

  <堂内に祀る諸仏(左)と入り口に並ぶ石仏群(右)>
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再度西野集落を訪ねたのは、前回の訪問で見落とした「山師の墓」を見てみたかったからです。

鶴子銀山とかかわりがあったという 「山師の墓(秋田権右衛門)」は、吉祥寺跡から100mほど離れた所にあります。

入り口の案内をみると、
「初代 秋田権右衛門は、秋田から佐渡に渡り、元和期の有力山師 古口権兵衛に仕え のちに名跡を継ぐ。

天保元年(1644)には、城之下の多門寺を西野に移築して吉祥寺と改称し、その境内にあった小社を移転し金北山神社とした。

子供がなかった権右衛門は、秋田から権九郎という甥を迎えて二代目権右衛門とした。

二代目権右衛門は、相川の鳥越間歩などの開発・切延べなど銀山巧者として名声を高めた。

承応2年(1653)銘の五輪塔は、先祖古口権兵衛夫妻の供養塔か、秋田の両親の供養塔と考えられる。」 と記されていました。

生家の「吉祥寺跡」や「金北山神社」の起こり、また、銀山開発の山師を知る上で貴重な訪問となりました。

       <山師にかかわる供養(五輪)塔>
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2009年6月21日

金鶴と沢根だんご

生家のある佐渡市沢根五十里(いかり)のみやげは、地酒「金鶴」と「沢根だんご」が有名です。

酒はたしなみませんので、友達から地元の冷酒 「金鶴」 が美味しいと聞いて、みやげに地酒を買って帰りました。

      <清酒 「金鶴」 を酒造する加藤酒造店>
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帰宅して直ぐ、スイミング仲間と 奥利根湖でカヌー挑戦 をしました。

カヌーを漕いで空腹となったお昼時、陸に上がって持参の「金鶴」で乾杯をしました。 「これは上手い!」 と言ってくれた時は、買ってきてよかったと思いました。

<店舗に並ぶ地酒(左)と清酒「金鶴」・「天の夕鶴」(右)>
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よく歌われる民謡に、次のような歌があります。

  ♪ 沢根通れば だんごが招く だんご招くな 銭がない

古里の名物の歌として感心しない文句のように思います。 しかし、食べて美味しいのが名物です。

天保年中(1830~)、沢根の佐藤久次郎が工夫創製し、沢根下町の「中の茶屋」で売り初めたのが最初と聞いています。

当時の沢根は出船入船の盛んな港があった頃です。 また、相川往復の人通りの多い時でもあったので評判となり人気があったといいます。

     <沢根だんごの製造販売元「いけだ菓子舗>
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私の記憶するところでは、沢根だんごは太平洋戦争中から戦後しばらくは作られていませんでした。 

私が生まれて初めて沢根だんごを口にしたのは、世の中の経済が少し上向いた昭和27年(1952)頃だったと思います。

当時、地元の俳句会に入会していたころ、句会の休憩時間にお茶菓子として出されたのが沢根だんごです。

物不足の時代です。 少しオーバーな言い方をすれば、「世の中に こんな旨いものがあったのか」 と思うほどでした。 
外皮がうすくて、甘い漉し餡(こしあん)が入った一口だんごです。 

いけだ菓子舗内には、沢根出身の現東京芸大学長の宮田亮平氏のサイン色紙がありました。

色紙の上には、亮平氏の実兄、第三代 宮田藍堂氏(故人)が書いた 「沢根だんご」 の大きな看板もありました。

<名物 「沢根だんご」(左)と宮田亮平氏サイン色紙(右)>
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2009年6月20日

赤泊・太郎杉公園

赤泊歴史散策の最後は、日本一の大きな杉の切り株があるという 「太郎杉公園」 を訪ねました。

山深い公園の一段高い所に、民話の里あかどまり 「太郎杉の館」 が建っていました。

館の中に入ると階段があり、太郎杉の切り株は 2階から鑑賞するようになっていました。

  <太郎杉の館>       <太郎杉の切り株>
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太郎杉切り株」 の民話を要約すると、

「大杉山にそびえる太郎杉は、子守りをしていた地元の娘に恋をし、若者の姿となって娘と逢う瀬を重ねていた。

切られることとなった太郎杉は、『俺は切られてもその場を動かぬ、お前が来れば動く、それで貰った褒美で暮せ。 お前は俺の子供を何万と宿している、山で用をたすと種が出て杉の木が杉山になる。』 と娘にいって別れた。

太郎杉は切られたが動くことはなく、娘の声に合わせて運ばれ海を渡って行った。 その後、川茂には太郎杉の子が広がり杉の産地として栄えた。」 といいます。

 <館に展示されていた昭和34年撮影の太郎杉の切り株>
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太郎杉の大きさ  長径: 三間( 5,4m)  短径: 二間( 3,6m)
           幹回: 八間(14,5m)  推定樹齢: 2100年

「太郎杉は、川茂杉と呼ばれ、萌芽力、生命力の強い品種で、麓の五所神社には、現存する最大の川茂杉(幹回52m、樹高30m)が神木として残っている。」 といいます。

たまたま、昨日の上毛新聞の 「時代を見つめる 『巨樹』 シリーズ」で、迦葉山弥勒寺の「馬かくれスギ」(沼田市天然記念物)が載っていました。

ちなみに大きさは、幹回: 8,5m、樹高: 35m、樹齢: 約900年で、樹木の内部は朽ちていて、人が立って入れるほどの空洞があるといいます。

ケヤキ、カツラ、スジダイ、スギなど、「時代を見つめてきた巨木」 はどこにでもあるものだと思いました。

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2009年6月19日

戦道陣屋&天狗塚

和尚とムジナの禅問答が残る東光寺を過ぎると、2騎の騎馬武者像が建つ 「戦道(たたかいみち)陣屋」 に着きました。

その陣屋から数百mほど西へ回ると、「天狗塚公園」 があります。

・戦道陣屋の話

城の山公園展望台の展示コーナーで 「戦道騎馬武者の像」を見ていて、どうしてここに騎馬武者なのかと不思議に思って観てきました。

ここ戦道陣屋に来てその事が分かりました。 上杉景勝勢と羽茂城主の義弟、本間三河守高頼軍との合戦場だったのです。

     <戦道陣屋>        <騎馬武者の像>
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陣屋前にあった 「案内」 を要約すると、

「天正17年(1589)6月、越後春日山城主上杉景勝が佐渡攻めの時、沢根に上陸した上杉軍は河原田城を落として羽茂へ向かった。

これを阻止しようと 羽茂城主の義弟 本間三河守高頼が援軍として羽茂に向かった。

このことを察知した上杉軍の黒金安芸守尚信は、本間三河守高頼軍を阻止しようと ここ川茂街道で戦った。
その後、ここが戦道と呼ばれるようになった。」 と記されていました。

騎馬武者に向かって右側が上杉軍の黒金安芸守尚信、左側の槍を持った方が本間三河守高頼といいます。

今人気の NHK大河ドラマ 「天地人」 と関連付けて、興味深く読ませてもらいました。

・天狗山の天狗の話

ここ天狗山公園にも、城の山公園展望台1階展示コーナーにあった 大天狗像 と同じものがありました。

     <天狗塚>          <大天狗の像>
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民話 「天狗塚の天狗」 によれば、

「昔 赤泊の村祭りの日に、上州(群馬県)の迦葉山弥勒寺に住むという天狗が空を飛んできた。

天狗いわく、『世に天狗道を広めんと諸国を行脚し、佐渡はこの村に住む。』 と言って弟子を集めた。

集まった弟子9人は、この天狗山で小天狗となるための厳しい修行が始まった。

     <標高404mの天狗塚から眺める赤泊港>
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厳寒酷暑の中、厳しい修行に耐えて、小天狗としての術を身につけ、時には佐渡で一番高い金北山へひとっ飛びした。

金北山参りで天狗たちが休んだ岩を天狗岩といい、今でも金北山の右にそびえている。 そこには天狗の足跡がたくさん残っている。

ここ赤泊徳和で、小天狗 『板立』 を輩出した野口家(屋号・板立)には、天狗の免状、空飛ぶ羽、棒杖、木剣などが残る。」 といいます。 
野口家の 「天狗の免状」 なるものなど、見てみたいものです。

また、前橋から帰省中の私に、上州(群馬県)迦葉山弥勒寺の天狗が出てきたのにはちょっと驚きました。 coldsweats02

民話 「天狗塚の天狗」 を読んだ後、標高404mの天狗塚から修行中の天狗たちも眺めたであろう、対岸の越後を望み赤泊の景勝を眺めて山を下りました。

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2009年6月18日

赤泊・東光寺(完)

東光寺の広い境内の東側に 「禅達三ツケ山公園」 があります。

園内には稲荷山、熊野山、金毘羅山、禅達奥の院、行者の丘、修行の大岩、池などがあります。

      <稲荷山>           <熊野山>
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稲荷山には「稲荷大明神」、熊野山には「熊野大権現」が祀られています。

赤い鳥居が続く金毘羅山の奥には 「金毘羅大権現」、その右奥に 「禅達奥の院」 があります。

     <金毘羅山>         <禅達奥の院>
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禅達とは、佐渡ムジナの総大将、相川の二つ岩団三郎の四天王の一人、赤泊の 「徳和の禅達」 です。

「徳和の禅達」 は、東光寺に新住職が入山すると、好んで禅問答を仕掛け、答えが拙いと追い出したという伝説のムジナです。 

その一つに、
ある日、太鼓をポンポンと打って、
「どうじゃァ、和尚。 今のは太鼓が鳴ったのか バチが鳴ったのか」
と発問したそうな。 すると和尚は、
「じゃァ、禅達。 おぬしは父の子か 母の子か」 とやり返したそうな。
禅達は、頭をかきかき、こそこそと帰ったそうな。
       (※この項、『佐渡風物詩』 浜口一夫著より)

東光寺の境内には、禅達が住んだという岩屋があるといいます。

子供のころ、大人から聞いたムジナの話は怖い話ばかりでした。
ここ東光寺の話は、ユーモアーがあって面白い話です。

また、ムジナの話は一説によると、山伏信仰がムジナをとおして佐渡に生まれたとも聞いています。

本物のムジナを見たのは、10数年前の6月上旬でした。 大野亀 のカンゾウ祭りの前夜祭で、宿から会場へ往復する途中で、車のライトに驚いて飛び出してきたムジナです。

タヌキに似た、黒いムジナを何匹も見た記憶がよみがえりました。

  <禅達大権現>        <岩屋口>
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2009年6月17日

赤泊・東光寺(続)

十六羅漢堂の前に 「力石」 がありました。 住職の説明を聞き洩らしたため石の重量が分からないまま通り過ごしました。

参道の脇に2本の 「梅の木」 があります。 ともに樹齢200年以上といいます。

 <境内にあった「力石」>  <樹齢200年以上の梅の木>
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次に、住職の案内で本堂に上がり、毎朝お勤めで使うという大きな 「木魚」 を叩いて、音色を聞かせてくれました。

続いて、本堂から庫裏へ回り 金屏風のある 「客間」 から手入れの行き届いた 「庭園」 を眺めました。 心が落ち着きます。

 <朝のお勤めで使う木魚>   <金屏風がある客間>
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庭木の手入れについて、住職いわく、

「庭木 〔雄龍・雌龍〕 の刈入れをしていた植木職人が、雌龍の角を刈り落としたため、即刻、職人を免ぜられた。」 というお話がありました。 寺院にとっては大事な庭木と言えるようです。

<見事な庭園(左)と「雌龍〔左〕・雄龍〔右〕」の庭木(右)>
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廊下の天井に 「魚鼓」 が下がっています。 よく見ると 魚鼓は口を結んでいます。 叩くと音色が違うのでしょうか? 

次の廊下には、佐渡流人 狩野絆幽筆の 「六地蔵板絵図」 がありました。 貴重な文化財を拝観することができました。 

十六羅漢堂から本堂、庫裏と案内をしてくれた住職に、お礼を申し上げます。 「有難うございました。」          つづく

  <廊下天井の魚鼓>       <六地蔵板絵図>
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2009年6月16日

赤泊・東光寺

赤泊徳和の みそなめ地蔵 を少し過ぎた所に、「曹洞宗 東光寺」 がありました。

この寺院は佐渡ムジナ(貉)伝説の岩屋があることで、「佐渡百選」に選ばれている寺院です。

当寺院へは東門から入ったので、いったん山門を出て、改めて山門をくぐり直して入山しました。

   <佐渡百選案内>       <東光寺 「山門」>
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東光寺は、曹洞宗の寺院で 永徳2年(1382)の創立といいます。

ご本尊は、聖観世音菩薩で、佐渡西国第八番札所といいます。
広い境内には、西国三十三カ所順礼塔(享和10年)や、釘念仏塔(明治5年(1768))があります。

         <曹洞宗 白毫山 東光寺 「本堂」>
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山門をくぐると、参道の左手に 「十六羅漢堂」 がありました。 

庫裏から住職さんが出てこられ、寺院内を案内してくれました。 

先ず、羅漢堂を開けて堂内を見学させてくれました。 また、撮影も許してくれました。

左上の 「なでぼとけ」 こと、第一 賓頭盧(びんずる)尊者のみ少し知る程度です。 後は説明を聞いて合掌し拝むだけでした。 つづく

    <十六羅漢堂>      <堂内に並ぶ十六羅漢>
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2009年6月15日

みそなめ地蔵

佐渡は地蔵信仰の盛んなところです。 赤泊の徳和に変わった名前の「みそなめ地蔵」があると聞いて回ってみました。

村の辻の小さなお堂の中を覗くと、地蔵尊が安置されていました。

  <徳和の辻の地蔵堂>     <地蔵尊参りの案内>
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お堂が開いたので、堂内に上がって記帳とお参りを済ませました。 

興味を持って観たのは、供物の一つに味噌樽があったことです。

何でも、お地蔵様の口に味噌を塗って長寿をお願いするとか。 面白い話の地蔵尊です。

 <簡素な堂内に安置されている地蔵尊と供物の味噌樽>
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ところで 地蔵信仰の盛んな佐渡では、いろいろな地蔵尊が祀られています。 ここ徳和でも 「おどり地蔵」 があるといいます。

「その昔、お地蔵様を祀る家の前を通った人が、急に持病が起きて苦しんだ。 その時、正面の地蔵に願かけして持病はおさまった。 

しかし、手元に持ち合わせがなく、心から南無地蔵菩薩と唱えながら踊った。」 との話があるといいます。  

他に、安寿の母が目を洗ったという達者の 「目洗い地蔵」や、真野豊田の「梨の木地蔵」、外海府海岸にある願の「賽の河原」の地蔵が有名です。

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城の山公園展望台

赤泊総合文化会館を出るとき、職員の方が 「赤泊を一望するには、城の山公園展望台がよいでしょう。」 と教えてくれました。

展望台の入り口に 見取り図が出ていました。 1階から4階が展示 コーナーで、外の展望回廊は5階にありました。

    <赤泊港の北の台地に建つ城の山公園展望台>
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展望台は、螺旋階段で時計と反対回りに上るようになっています。

展示室には赤泊の民話や、民話にちなんだブロンズ像などが展示されています。

民話にちなんだ次のブロンズ像(4基)は、当赤泊出身の日展作家 田中足穂氏の作品といいます。

 「戦道(せんどう)騎馬武者の像」、「八寿三郎・土用五郎」
 「悲しい佐渡牛の像」、「爪の沢の蝶ねえの像」

     <戦道(せんどう)騎馬武者の像(1F)>
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民話 「悲しい佐渡牛」 (3F展示コーナーの「案内」より)
「佐渡は昔から和牛の産地であり、農耕用にまた繁殖用に一軒に1~2頭は飼われていた。

佐渡には、優秀な佐渡牛を繁殖させるため、雄牛を売って雌牛は島外に出してはいけないという不文律があったが、ある家で後継ぎに優秀な子牛が生まれたため、母牛を越後に売ってしまう。

越後の浜に下ろされた母牛は、子牛恋しさに佐渡を目指して泳ぎだした。 船頭たちは船で追いかけたが逆風のため捕まえることができなかった。

一昼夜泳ぎ続け帰ってきた母牛は、力尽きて大杉地区の浜に沈んだと語り伝えられており、それからその浜を 「たたずの浜」 というようになった 「母性愛」 を描いた話です。」 とあります。

伝説を読んでいて、佐渡で生活をしていたころ七浦の海岸でゆったりと草を食む黒牛の光景を思い浮かべました。

また、4階にあった 「爪の沢の蝶ねえ」 も面白い民話でした。

  <悲しい佐渡牛の像(3F)と爪の沢の蝶ねえ(4F)>  
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ここで不思議に思ったことが一つあります。 1階の展示コーナーに、元横綱 曙関 の大きな優勝額 があったことです。 赤泊とどんな関係だったのでしょうか? 

5階の展望台に上りました。 展望台の標高はどれほどでしょうか? 赤泊の素晴らしい風景が望めました。

   <赤泊支所方面>      <総合文化会館方面>
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2009年6月14日

赤泊・禅長寺

島民が選んだ島の宝 「佐渡百選」 に、赤泊の 「禅長寺」 が選ばれています。

その説明によれば、
「京極為兼が佐渡に流されたとき、往復の旅宿であったところといわれている。」

「為兼がこの寺での祈願で帰京できたところから、帰京観音の名で信仰される仏像や佐渡七福神の一つ、京極毘沙門天図が安置されている。」 といいます。

(京極為兼=鎌倉後期の歌人。 皇位継承問題に関係したところから永仁6年(1298)佐渡に配流)

<明治31年(1898)に全焼し同37年に再建された本堂>
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松林山 禅長寺の要覧によれば、
 ご本尊は、聖観世音菩薩 (大正6年 初代 宮田藍堂 作)
    (蝋型鋳金家 宮田藍堂家は、生家の近くにあります。)
 創立は、天長4年(827)と伝えられ、開基は天徳3年(959)

 佐渡新四国第十六番札所、本尊は千手観世音菩薩
 佐渡七福神の一つ、毘沙門天を祀る。

 附属仏堂 ・瑠璃殿(薬師堂) 本尊 薬師如来
         ・摩尼殿(地蔵堂) 本尊 地蔵菩薩
        ・奥の院(曾里地観音堂) 本尊 帰郷の観世音菩薩

      <禅長寺の山門>      <旧本堂の鯱鉾?>
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赤泊総合文化会館

赤泊に来ても見学で寄ったことのなかった、「赤泊総合文化会館」 を初めて訪ねてみました。

         <赤泊総合文化会館の入り口>
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入館して先ず、生家が同じ佐渡であっても、文化がこんなに違うものかと思ったのが実感です。

1階の第1展示室には 「祭り」 を、第2展示室には 「村の歴史」 が分かりやすく展示されていました。

赤泊りの祭りは、春の4月と秋の9月に行われるといいます。
その祭りを盛り上げる、華やかな山車1台が展示されていました。

   <1階第1展示室 「島の祭りコーナー」の【山車】>
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1階の第1展示室は、島の祭りコーナーです。

<大獅子> 獅子は霊獣として崇められ、霊力によって悪魔を払い火伏せや息災延命をもたらすといわれています。
神輿渡御の前面で露払いの役目を持ち、赤泊地区には九つの大獅子があるといいます。

<鬼太鼓> 悪魔を払い五穀豊穣を祈って、神社の祭礼に町内を回って奉納される芸能です。
赤泊地区の代表的なものに、筵場(むしろば)・浅生(あそう)系があるといいます。 (佐渡では「鬼太鼓」を 「おんでこ」といいます。)

筵場の鬼太鼓の踊り方はバチ(棒)を持って舞う、旧式・中式・新式の三通りがある。 
浅生の鬼太鼓は、薙刀を持って舞う。 伝承では相川鉱山の工夫が金を掘る姿を舞踊化したものと伝えられるといいます。
(私の生家、沢根は相川系で鬼が薙刀を持って舞う鬼太鼓です。)
 
     <大獅子>           <鬼太鼓>
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<小獅子> 赤泊新谷の小獅子舞いは、
京都祇園の「八鹿(かのこ)舞」に似ているといわれています。

杉浦地区の小獅子は、中名・竹名・へた名の三人が、紀州熊野本社へ参詣したとき霊夢のお告げによって同所から持ち帰ったものと伝えられる。 200年以上の歴史があるといいます。

<つぶろさし> 旧羽茂町の菅原神社と草刈神社の祭礼で行われる太神楽です。
男性と女性が、子孫繁栄、豊かな実りを祈願して奉納するもので、原始的・土俗的 においのする滑稽な神楽と聞いています。

獅子舞や鬼太鼓、つぶろさしなど、人形の動きがテレビで見ることができます。 一味違った祭りの気分が味わえました。

      <小獅子>          <つぶろさし>
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第2展示室には、昭和30年代ころ映画になった「丹下左膳」の作者林 不忘・牧 逸馬・谷 譲次と 三つのペンネームを持つコーナーがありました。

若いころ夢中になって読んだり、映画を観たりした 「丹下左膳」 です。 作者が、佐渡の赤泊出身とは知りませんでした。

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2009年6月13日

赤泊温泉と御座船

食べ物の持ち込みができる赤泊温泉の風呂に入って、その後 昼食をとることにしました。

「あかどまり城が浜温泉 サンライズ城が浜」の浜辺に出てみました。 近くに 「城が浜海水浴場」 が見えます。

浜辺から見て左が温泉施設、右の1階にレストラン、会議室、裂織り実習室、体験実習室などがあり、2階が宿泊室となっています。

  <浜辺から浴室を撮る>   <浜辺から客室を摂る>
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泉質は、含硫黄・ナトリュウム・硫酸塩泉で、神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・運動麻痺などなどに適応するといいます。

穏やかな海の見える浴槽に、ゆったりと浸かって心身ともにリラックスし、あはと美味しく昼食をいただきました。

    <海が見える「あかどまり城が浜温泉の浴場」>
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赤泊のシンボルマーク、「佐渡奉行渡海の御座船」 が赤泊港の近くにあります。

   <佐渡奉行渡海の御座船>    <前方から撮る>
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佐渡奉行渡海の御座船の案内によれば、

「佐渡金山隆盛時の正徳4年(1714)、幕府の天領であった佐渡の奉行が二人制となり、渡海の出港地も出雲埼から寺泊に変わった。

以来幕末まで、奉行が佐渡へ赴任するときは、寺泊から赤泊に渡るコースがとられた。

奉行の乗った船には4畳の仕切りがあり、葵の御紋が付いた帆を張って、朝五ツ(午前8時)頃寺泊港を出港し、七ツ(午後4時)頃赤泊港へ着いた。

我先にと引船役をかって出迎える漁師衆や歓迎の村人らで港は賑わった。 その頃奉行は、赤泊に泊り、翌朝相川へ向かった。」
と、記されていました。

小木方面はよく来ていますが、赤泊までは足が遠のいていました。 赤泊港の勉強ができました。

これからの赤泊の散策、小佐渡の山越えが楽しみです。  つづく

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前浜海岸「松ヶ崎」

松ヶ崎は、越後と佐渡を結ぶ海上の最短距離にあり、その昔、国府の瀬(こうのせ)と呼ばれ、国の津(港)として栄えてきた所です。 

国の津 松ヶ崎港跡には、高さ22mの「鴻ノ瀬鼻灯台」が立ち、
日蓮上人・世阿弥着岸地の碑」、その前に 「松ヶ崎御番所跡」 があります。

国司や役人、流人たちもこの港から出入りし、佐渡配流の日蓮上人や世阿弥もこの港に着いて、ここから小佐渡山脈を越えて国仲方面へ出たといわれています。

     <「日蓮上人・世阿弥 着岸地」の記念碑>
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これまで1・2度この前を通りましたが、少々海岸よりに入り込むため立ち寄ったことがありませんでした。

広々とした広場を散策し、その後 「松ヶ崎御番所跡」 の建物の中に入ってみました。

三間四間ほどの平屋の一番奥に「帆船の模型」があり、周りの壁には「三十六歌仙絵馬」の写真が掛けてありました。

展示されている絵馬は、ここ松ヶ崎の「松前(まつさき)神社」に奉納されていた三十五枚といいます。

近年、旧佐和田町の実相寺で見つかった、寛永元年の作品17枚とともに、江戸初期のものとして注目を集めているといいます。

   <帆船の模型>        <三十六歌仙絵馬>
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松ヶ崎港跡を出てから、入り口にあった赤い鳥居や石塔が気になっていたので寄ってみました。

佐渡七弁天の一つで、弁財天や青龍大権現などを祀る祠がありました。 その横に 「三助・お菊いこいの地」 の案内が出ていました。

「三助(土佐出身)とお菊(能登出身)がともに佐渡へ流されてきた。 その二人が夫婦となって稲作作りに励んだ。」

「この地は、三助・お菊が真夏に語り涼んだ 「いこいの地」 といわれている所」 と、案内に出ていました。

面白い話の地を ゆっくり見学して行きたかったのですが、昼の時間も過ぎたので 次の赤泊へと向かいました。

  <弁天崎の案内>       <石塔が並ぶ弁天崎>
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2009年6月12日

片野尾の「風島弁天」

姫埼灯台から水津港を過ぎると、岩礁に松の木を生やし小さな祠を乗せた 「赤亀岩」 が見えてきます。

その 「赤亀岩」 を過ぎると、高さ数十mという ひときわ大きな岩山の 「風島弁天」 に着きました。

   <頂上に巌島姫(弁天様)をまつる「風島弁天」>
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佐渡の海岸には、弁天様をまつる祠が多くあります。

私の知るところでは、両津の見立・虫崎・水津立島、相川の小野見、二見の台が鼻、真野の高崎、小木の内の澗などがあります。 

風島弁天は、岩の大きさからその代表格のようです。

 <手すりの付いた石段>     <岩壁を削った参道>
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赤い手すりの付いた狭い石段を上り、さらに岩壁を削った急な坂道を足元に注意しながら上りきました。

頂上には、「弁天祠堂」 がありました。

参詣しての帰り道、歩きながら辺りの素晴らしい景色を眺めることができました。 happy01

  <頂上の弁天祠堂>     <参道から海岸を望む> 
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大佐渡の外海府海岸は、北風が強くて樹木が育ちません。 
暖かい小佐渡の前浜海岸には樹木の茂る岩が点在します。

風島弁天も黒松が茂り、美しい景観を見せてくれます。 smile 
海からの爽やかな風を受けながら片野尾の海岸に下り立ちました。

<巨岩に残る古木>     <下り道で海岸を撮る>
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佐渡・姫埼灯台

小佐渡東端の丘の上に建つ 「姫埼灯台」 を中心にして、両津湾に面した方を両津東海岸、外海の方を前浜海岸と呼ばれている。

姫埼灯台は、車で佐渡が島一周をしたとき 何度か訪ねています。

越佐海峡の航海安全のため、明治28年(1895)佐渡の灯台第一号として点灯した灯台といわれています。

姫埼灯台は、鉄造りの灯台としてはわが国最古のもので、歴史的、文化的にも価値の高い建造物で 「世界各国の歴史的に特に重要な灯台百選」 にも選ばれているといいます。

(他には、神子元島(静岡県)、犬吠崎(千葉県)、美保関(島根県)、出雲日御崎(島根県)の灯台が選ばれている。)

     <重要な灯台百選に選ばれている姫埼灯台>
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灯台の説明では、「高さ14,2m、光り方は6秒に一閃光、光は約33kmまで届く。」 と、出ていました。

灯台の一段下に「姫埼灯台館」があります。 有人灯台が昭和36年からの無人化で、今は記念館として残されています。

灯台館の右手の海上に、佐渡百選に選ばれている「龍王岩」が望めます。

     <姫埼灯台館>        <龍王神社>
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この一帯は公園化されて、灯台館から海岸に下る道があり、坂道を下ると岩礁沿いに遊歩道があります。

遊歩道を歩いて坂を上った所に、順徳上皇ゆかりの「龍王神社」があります。

13年前に来た時は遊歩道を歩いたのですが、その後台風の被害にあい、今は「歩行禁止」となっていました。 歩けず残念! shock

  <龍王岩のはなし>      <伝説の「龍王岩」>
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2009年6月11日

津神島神社(続)

東海岸に突き出た黒松の島が津神島公園です。 神社裏の岩の上に航海の安全を祈る善宝寺さんがあります。

善宝寺由来」(建立 明治18年3月)によれば、
「当時の大川港は、加賀、能登、大阪方面からの和船の出入繁しく、夜間出入港に非常に不便を感じていた。」

「廻船問屋 井藤藤左エ門、名主 林冶郎左エ門が発起となり、入港する和船や漁船から寄付を仰いで建設した 【私設灯台】で、当時は非常に喜ばれた。」

「一階には海上安全、大漁満足を祈願して善宝寺を祀り、二階には 【石油五分心絃燈】を毎晩点灯した。」

「当時はそれが最高の明りであったという。 その石油代は和船からの寄付やイカ釣り舟からの トンボ税 として徴収し、それにあてたといわれている。」 と、記されていました。

※ トンボ税 ⇒ 初めて聞く言葉です。 どんな徴収法でしょうか? 

  <燈明台「善宝寺」>     <善宝寺さんの裏側>
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善宝寺さんの裏には、海とつながる 「いけす」 があります。 以前は魚がいたように思いますが何も見えません。

岩の上に立つと、沖合を新潟港に向かうカーフェリーが見えました。

公園内は、イワユリが蕾を膨らませハマナスの花が咲いています。

<新潟へ向かうカーフェリー>   <公園内のハマナス>
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津神島から両津よりに約100mの岩の所に赤い鳥居が見えます。
好奇心から行ってみると、古峯神社が祀られていました。

<災火守護の「古峯神社>     <古峯神社縁起>
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津神島神社

東海岸に突き出た朱塗りの橋がひときわ美しい津神島に鎮座する、津神島神社を訪ねました。

  <東海岸の景勝地「津神島神社」が鎮座する公園」>
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赤い「津神橋」手前の集落のはずれに「波除け地蔵尊」が祀られていました。

波除け地蔵尊の由来」 によれば、
「帆船時代の大川港は、北前船の風待ち港として、大変な賑わいであった。」

「その頃、石見の国の西村幸助所有の帆船が、大波で危険となり、命綱を止めんと作業中、大川の若者一人が岩と船に挟まれ無残な死を遂げた。 その “身代わり地蔵尊” として建立したものである。」

「今もその岩場には、当時の “船繋ぎ岩” が多数ある。 海中から揚げられたイカリも、神社の境内に残されている。」
と、記されていました。

境内の一角には、大川港沖20mの海中から引き揚げられたという、錆びついたイカリが展示されていました。

    <波除け地蔵尊>     <境内に展示するイカリ>
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津神橋を渡って、黒松の参道を100mほど進むと本殿があります。

津神神社の縁起」 によれば、
「祭神は、底筒男尊、中筒男命、表筒男命」

「創始は、仁和2年(1152)8月18日、落乃水(水津と大川の境)の海中より出現された神様を、部落の守護神として、井戸の上遺跡付近(部落上の段丘)に鎮座したのが始まりという。」

「現在の津神島に移転した年代は、元禄以前といわれているが正しい年代は不明である。」

「以来大川部落の守護神として、また、本土交流の千石船の航海安全、商売繁昌の神として多くの人達の心を支えてきた。」
と、記されていました。

  <朱塗りの「神津橋」>     <津神島神社本殿>
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津神島には、これまで何度も来ていますが、「由来」 や 「縁起」 について、これほど熱心に読んだことはありませんでした。

今回はよく読ませていただきました。 これも拙いブログを書くようになったからでしょうか? 一生勉強です!

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2009年6月10日

持秀院と地蔵尊

宇賀神社のお参りを済ませてから、帰りは上ってきた反対側の石段を下りました。

坂を下って直ぐに、山道を挟んだ次の坂道を上ると、海をのぞむ高台に「持秀院」がありました。

『島の神・島の佛』 〔Ⅲ〕 絵 近松行雄・文 田中圭一 によると、

「寺は真言宗の「持明院」と「秀蔵院」を合併して「持秀院」と名付けられた。」

「現在の寺は、秀蔵院のところにある。 また、この寺は目の薬師として知られる。」 といいます。 

  <「秀蔵院」の本堂 >      <目の薬師堂?>
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本堂の横には舟形光背の観音石像が並んでいます。 数えてはみなかったのですが三十三観音? のようです。
      
          <地蔵堂の横に並ぶ観音石像>
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持秀院を下ると、「相川33km 両津港8km」 の道路標識がある県道45号に出ました。 

海を背にした地蔵尊に、地元のお年寄りが花を供えていました。 

ここ両尾(もろお)集落の海岸には、海を向いてたくさんの石塔が並んでいます。 また、イワユリが咲き海は穏やかな風情でした。

 <集落を見守る地蔵尊>     <穏やかな東海岸>
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2009年6月 9日

佐渡・宇賀神社

小佐渡の北端を回ろうと両津湾の東海岸を、姫埼灯台に向けて車を走らせました。

姫崎の灯台へ着くまでに両尾(もろお)の宇賀神さんと、朱塗りの橋が架かる大川の津神島神社があります。

海抜160mの頂上に鎮座する宇賀神社は、穀物の神様ともいわれお正月は2年詣りで大変賑わうところでした。

<宇賀神社の案内>  <本殿まで602段の石段を上る>
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子供のころの佐渡の正月は、ひと月遅れの2月1日が元日でした。

この時期は最も寒い大寒で、寒かったお宮詣りを記憶しています。

山頂の本殿より一段下に、金毘羅神主と秋葉山大権現を祀るお堂がありました。
奉納されていた、鯛、犬、魚の3個の吊るし雛が印象的でした。

本殿が建つ山頂は狭く、本殿がカメラに収まりません。 しかし、狭い境内ですが仏崎の景観が望めました。  

    <宇賀神社本殿>     <境内から仏崎を望む>
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尖閣湾と夫婦岩

荒削りの断崖絶壁が約2kmにわたって続く海岸美、佐渡が島きっての名勝地 「尖閣湾」 に着きました。

同伴の長男は、尖閣湾の絶景を眺めながら歩く遊歩道を知らないといいます。

高さ20mという断崖上の遊歩道を、長男と一緒に歩き始めました。

   <揚島に架かる遊仙橋(真知子橋)と揚島を望む>
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生家から比較的近い尖閣湾は、帰省の都度、家族や友達と一緒に訪ねています。

また訪ねる季節は、初夏から秋にかけて多く来ているようです。

次に、こちらに出たら必ず立ち寄ることにしているのが、七浦海岸の風光明美な景勝地 高瀬の夫婦岩です。

   <透視船発着場>       <高瀬の夫婦岩>
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夫婦岩近くの路上脇に、ハマナスの花が咲いていたので行ってみました。 近くには黄花カンゾウの花も咲いていました。

驚いたことにワラビ(蕨)を見つけたのです。 車にいた家内を呼んでワラビ採りをしました。 

弾埼灯台を訪ねたときは、ワラビとフキ(蕗)採りました。 佐渡の人はワラビに関心がないのでしょうか?

採取したワラビとフキは、湯がいて保存食として持ち帰りました。

 <七浦海岸のハマナス>    <高瀬の黄花カンゾウ>
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2009年6月 8日

平根崎の波食甌穴群

安寿塚から相川寄りに約2,5kmのところに、国の天然記念物指定の「平根崎波食甌穴群」があります。

平根崎の岩場に立って見ると、巨大な広い岩盤が斜めになって日本海に突っ込んでいます。

甌穴群は海面近くにあります。 甌穴を見るには急な岩場を下りなければなりません。 岩場は滑って危険です。

これまでここは何回も通ったことがあるのですが、今回のように甌穴群をよく観察したことはありません。

   <波打ち際すれすれに大小無数の穴があります>
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長年にわたって波が打ち寄せるたびに石が転がって、岩盤が擦れて穴ができる。

ここ平根崎海岸には、大小無数の穴があり、甌穴群の数では世界第2位と聞いています。

目を移すと岩の割れ目に 「カメノテ」(亀の手)が群生しています。

ものの本によれば食するといいますが、佐渡に居たころは食べるものでないと聞かされていました。 
「食べますか」 と聞かれれば、いまも食べる気はありません。 wobbly 

        <岩礁の波間に生息するカメノテ>
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ところで、この付近の海底には温泉が湧出しています。 

以前、ホテルひらねの温泉に入ったことがあります。 展望風呂に浸かりながら、雄大な外海府の景色を眺めたことが思い出です。

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夕鶴の碑と安寿塚

藻浦崎に囲まれた北片辺(きたかたべ)の集落は、民話の里と言われています。

鶴の恩返しで有名な木下順二の 『夕鶴』 の里としても有名です。

県道脇の北片辺保育所敷地内に、木下順二筆という 「夕鶴の碑」 が立っていました。

青年団の頃、舞台で演じた 「夕鶴」 の手伝いをしたことがあります。

   <「夕鶴の碑」案内>       <夕鶴の碑>
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外海府は、山椒大夫をはじめとする民話の里として知られています。

北片辺から南片辺を過ぎるて鹿の浦に入りました。 道路標識に 「安寿塚」 の標識が出ていました。

最初に 「安寿の碑」 を鑑賞し、続いて100mほど離れた海岸よりの畑の中の 「安寿塚」 を鑑賞しました。

          <「安寿と厨子王の碑」案内>
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文庫本 『安寿と厨子王』 は、今でも手元にあります。 子供のころは涙しながら読みふけった記憶があります。

直江の浦、米山(よねやま)、親不知(おやしらず)子不知(こしらず)などの地名が出ると、上越での8年間の生活を思い出します。

  <安寿と厨子王の碑>       <安寿塚>
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安寿塚にはお堂があったといいいますが、いまは標柱のみでお堂の屋根瓦でしょうか、塚の上に積み重ねてあります。 

手持ちの資料に寄れば、お堂内には逗子王親子三体のお地蔵さんがあったと記されています。

    <ダッタン塚>
079 安寿塚の帰り道、トンネルの横にあった小さな祠をカメラに収めてきました。
 祠の前にあった石塔 「韃靼塚」 の文字が読めません。
 またその意味がわかりません。
帰宅して調べたところ、

「「ダッタン」(韃靼)は、蒙古民族の一種でタタール(塔塔児)と呼ばれた。」 とあります。 (『佐渡』 伝承と風土 磯部欽三著 より)

ここ鹿の浦には 「ダッタン人の墓」 があったといいます。
外海府の鹿の浦は、昔の謎を秘めたロマンに富んだ所といえます。
勉強になりました。 delicious happy01 

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2009年6月 7日

入崎海岸

岩屋口から「関の寒戸」を通り越して、夏は海水浴で賑わう入崎の海岸に来ました。

海にせり出した入崎の浜辺は、千本鼻とも呼ばれています。

二つの大岩には、しめ縄が張られ先端の岩礁には祠があります。 ほどなく祠周辺には、可憐なイワユリが咲き始めます。

  <しめ縄を張った大岩>    <海の方から見た祠>
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沖合には、帆掛島や沖の御子岩などがあり、変化に富んだ美しい海岸です。 キャンプ場、海水浴場としても設備が整っています。

ここで、トベラやハマナスの花を眺めながら弁当をひろげました。

  <つぼみのイワユリ>    <色鮮やかなハマナス>
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<参考>
関の寒戸は、二つ岩団三郎の四天王の一、佐武徒(さぶと)という貉(むじな)の祠があることで知られています。

以前に一度、立ち寄ったことがあり今回はパスしました。

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海府大橋と岩屋口

大野亀を発って、北鵜島を経て真更川から岩屋口へ向かう途中に架かる 「海府大橋」 に来ました。

<画像下左> 沖合の方から見ると赤い橋脚の 「海府大橋」
大橋を渡って岩屋口側の道端に車を止めて、橋の真ん中まで来て下を覗いてみました。

橋下の断崖には「大ザレの滝」が流れ落ちています。 しかし、真下のため確認することができません。
 
<画像下右> 海府大橋の真ん中ころで撮った海岸風景
落差100mという大ザレの滝は、舟で沖合から見ることしかできないといいます。
しかし、舟で来た観光客でしょうか、砂浜で手を振っています。

    <海府大橋>          <橋の下を覗く>
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外海府の難所といわれていた海府大橋を過ぎると、岩屋口の遺跡に着きました。 

高さ30mの断壁の裾には、口を開けた様な岩屋口の岩窟がいくつもあります。

<画像下左> 「竜眼の池」 の伝説が残る薄暗い洞窟の入口

          <伝説 「竜眼の池」>
「洞窟の中に我が子の目玉を落として逃げた母竜と、それを拾った翁が薬師様に差し出すと、薬師様はその目玉を洗って池に放した。」

「その後、母竜は再び人間界に姿をあらわさすことなく、その目玉は真夜中に青白い光を放って母竜を待っている。」
旨のことが記されていました。

洞窟の中に入ってみましたが、奥には水溜まりがありました。 

<画像下右> 入り口の右上に 「南無阿弥陀仏」 の刻印
木食遊行僧として知られる弾誓上人の名号書という、六字名号の刻印が見られました。 

   <伝説が残る洞窟>      <六字名号刻印>
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次の洞窟前には岩屋口の観音堂がありました。
観音堂の右上の岩壁にも、六字名号が刻まれていました。

   <六字名号>        <岩屋口観音堂>
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2009年6月 6日

佐渡・大野亀(続)

大野亀の頂上に登れば、外海府の美しい海岸線を眺めることができます。 ここ大野亀に来たときは、山に登ることにしています。

<画像下左> 大野亀の裏側に当たる切り立った岩場
大野亀の見晴らし台から登山道へ回り込む時に見えてくる、シベリアおろしでできた切り立った岩場です。

<画像下右> 山登りの途中で見た美しい海岸の景色 
黄花カンゾウが咲き始めた台地から、ジグザグの山道を登ります。
途中の坂で一息入れたところで、後ろを振り返って見たときの見事な外海府海岸の景色です。
 
   <切り立った岩場>      <外海府の海岸線>
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<画像下左> 日本三大奇岩の一つに数えられる大野亀
これから登ろうとする巨岩の大野亀を、駐車場から眺めて撮った一枚です。

<画像下右> 標高167mの頂上で長男が撮ってくれた画像
頂上付近は柏の木が茂っています。 そこを抜けると航海の安全を見守る大きな石塔が立っていました。

  <日本三大奇岩という大野亀>    <山頂で撮る>
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<画像下左> 山頂に立って東側の 「入崎方面」を撮る。

<画像下右> 山頂に立って北側の 「二つ亀方面」を撮る。

     <入埼方面>         <二つ亀方面>
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2009年6月 5日

佐渡・大野亀

弾崎から藻浦、二つ亀を過ぎると願(ねがい)の集落に入ります。

願には海に突き出た大きな岩山、標高167mの大野亀があります。

<画像下> 大佐渡の北の海に突き出た巨大岩 「大野亀」
 6月、大野亀の台地には黄花カンゾウ(トビシマカンゾウ)が咲き、
 例年6月の第2日日曜日には、カンゾウ祭りが行われます。
 今年は6月14日と聞きました。

     <日本海に突き出た大きな岩山「大野亀」>
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<画像下左> 早咲きの黄花カンゾウ(トビシマカンゾウ)
 過去何回か、友人とカンゾウ祭りに来たことがあります。
 宿は藻浦の民宿「栄国屋」さんでした。

 前夜祭は佐渡郷土芸能 「鬼太鼓(おんでこ)」や「佐渡おけさ
 などを見学しました。

 特に、かがり火の燃えるなか勇壮に舞い踊る鬼太鼓、沖合いに
 輝く漁火を見た光景は今でも心に残っています。

    <黄花カンゾウ>      <海抜167mの大野亀>
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<画像上右> 波打ち際から山頂まで1枚の岩という大野亀
 「」は「」、アイヌ語の「カムリ」に通ずる神聖な島を意味し、
 頂上の石塔は航海の安全を守る竜神として信仰されている。
    (※見晴らし台の「案内板」より)

<画像下> 大野亀の台地、見晴らし台から眺める二つ亀
 黄花カンソウは佐渡の方言で、ユーラメやヨーラメ (卵をはらんだ
 魚の意味)と呼ばれ、鯛などが産卵にくる漁期を告げる花である。
    (※見晴らし台の「案内板」より)

大野亀に来れば頂上を目指すことにしています。 黄花カンゾウが
咲き始めた台地から登り始めました。          つづく 

  <大野亀の台地から先ほど立ち寄った二つ亀を望む>
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2009年6月 4日

弾崎~二つ亀へ

両津港から佐渡最北端の「弾崎(はじきざき)」までは、およそ20kmです。

弾崎の高台には 「はじき野フィールドパーク」 があり、ログハウスやオートキャンプ場、子供広場、日本海を望む見晴らし台などが完備されています。

<画像下左> 佐渡の最北端、弾崎の高台に立つ「弾埼灯台」
  フイルドパークの管理人から聞いた、興味深い話です。
  弾崎の地名は「」で、灯台名は「」を使っているといいます。

  そんなことで調べてみたら、尖閣湾の灯台は「大埼灯台」、
  姫崎の灯台も 「姫埼灯台」 と、「」を使っていました。 
  注意して見ると全国にもあるといます。 勉強になりました。  

     <弾埼灯台>     <喜びも悲しみも幾歳月像>
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<画上右> 灯台を背に建つ「喜びも悲しみも幾歳月之像」
  灯台守の生活と夫婦愛をモデルにして作られたという映画
  「喜びも悲しみも幾歳月之像」です。

  像の前に立つとメロディーが流れてきます。 佐渡は帰省してと
  いう実感が湧くところです。 happy01

<画像下> 日本海の水平線が望める「見晴らし台」
  ここは東の水平線から昇る朝日と、西の水平線に沈む夕日
  が見られるところで有名な場所です。

      <見晴らし台から景勝地二つ亀を望む>
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<画像下左> ユニークな「距離案内」が立っていました。
  ちなみに、「ウラジオストック 769km」、「東京 311km」 と出て
  いました。

<画像下右> 佐渡外海府の名勝地といわれる「二つ亀」
  沖の島、磯の島と呼ばれる大きな二つの岩。 その姿が亀に
  似ているところから、「二つ亀」の愛称で親しまれています。

  澄み切った海は海水浴場として、また高台はキャンプ場として
  人気があります。
 
  ここで泳いだのは60歳の定年を迎えた24年の夏ということに
  なります。 懐かしさが湧いてきます。

   <距離案内>     <海底が見える二つ亀海岸>
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2009年6月 2日

沢根・白山神社

昭和29年(1954) 「昭和の大合併」 前の沢根町は大字が二つで、沢根は上町と下町、五十里(いかり)は、篭町、田中町、城之下町、炭屋町でした。 ちなみに私の生家は田中町です。

沢根町には、「白山神社」 と書く神社が二つありました。
生家の氏神様は「白山(はくさん)神社」 と呼び、沢根上町は 「白山(しろやま)神社」 といいます。

子供のころはどちらも 「はくさんじんじゃ」 と呼んでいた記憶がありますが、今回の帰省で呼び名の違いを知ることができました。

<画像下左> 石段を上った所に建つ朱塗りの稲荷鳥居
 およそ50段の石段を上ると四脚の稲荷鳥居がそびえています。
 鳥居の下に立って後ろを振り返ると、静かな真野湾が見えます。
  
<画像下右> 鳥居をくぐった直ぐ前にあつた御堂
 「八大竜王」、「舟魂神主」、「金刀毘羅宮」、「稲荷大明神」が
 祀られていました。
    <朱塗りの鳥居>      <諸神を祀る御堂>
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<画像下> 静かな真野湾に向かって鎮座する白山神社
 和銅元年(708)に白山の地に勧請され、天暦3年(949)に
 柳ヶ峰に遷座したといわれています。  
     <ご祭神、伊弉諾尊、伊弉冉尊を祀る本殿>
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沢根町は、海上交通の要となる港として栄えた町と聞いています。

白山神社には、港に出入りした船主や船頭が航海の安全を祈願して奉納したと伝えられる、船絵馬(町文化財)や武者絵馬など29点が奉納されていると聞きました。

船絵馬が見たくて訪れたのですが、朝の散歩では訪ねる時間帯が早過ぎました。

<画像下> 白山神社の右隣にある専得寺の鐘楼と本堂
 専得寺の墓地には、佐渡金山奉行大久保長安の家来で
 佐渡金銀山に功のあった宗岡佐渡の墓があります。
  <専得寺の鐘楼>      <時宗専得寺の本堂>
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2009年6月 1日

古里・沢根の海岸

佐渡を発って54年余、時代は流れ流れて我が古里、沢根五十里(さわねいかり)の海岸も大きく様変わりしました。

子供のころにはなかった防波堤ができ、静かな沖合にはカキの養殖筏が浮かんでいます。

<画像下左> 漁師に信仰のあった篭町の善法寺さんです。
  子供のころ、漁師たちは6月の下旬ころになると船で酒田の
  善宝寺さん詣りに出かけていました。

<画像下中> 帰省して最も心が癒される古里の景色です
  沢根の崖は「沢根層」といわれホタテ貝、タマキ貝等数十種
  の貝化石や海藻の有孔虫の化石が出たところです。

<画像下右> 沖合に伸びる防波堤の先端にある灯台です。
  釣りシーズンともなれば、多くの釣り人が盛んに釣り糸を垂れ
  る姿が見られるところです。

<善宝寺さん>   <穏やかな入江>    <ミニ灯台>
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沖合に伸びる防波堤の上を歩いて、堤防上から古里の景色を眺めるのが、帰省した時の楽しみの一つです。 happy01

<画像下左> 堤防上から海面を覗くと海藻が茂っています。
  夏から秋にかけて、海藻の間から小魚(アジやクロダイなど)が
  泳いでいるところを見ることができます。

<画像下右> 防波堤の中ほどから丘の上の小学校を望む。
  昔の校舎はすでにありません。 大きな体育館と新校舎が見え
  ます。 6月は運動会がありました。 走ることが好きだった私は
  運動会が待ち遠しかったものです。

   <海中に茂る海藻>     <高台の小学校を望む>
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2009年5月31日

畑野・長谷寺(続)

畑野の長谷寺(ちょうこくじ)は、前浜海岸の松ケ崎から小佐渡の小倉峠を越えた畑野の長谷にあります。

鎌倉時代、佐渡配流となった日蓮上人や世阿弥も、小倉峠を越えて長谷の観音堂に寄られたともいわれています。

観音堂の左手横に祠があり、中に小さな石地蔵がいっぱい並んでいます。 長谷の大地蔵に願をかけるとき、身代わり地蔵として奉納されたものといいます。

  <観音堂(大悲殿)>       <身代わり地蔵>
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一本の大きな杉の根元に、高さ245㎝、像高185㎝という背に舟形光背をつけた長谷の大地蔵が立っています。

右手に錫杖、左手に宝珠を持った大地蔵は、延命地蔵として多くの人の信仰を集めているといいます。

案内によれば、
「昭和54年11月、平山郁夫先生が “佐渡の石仏スケッチ旅行” に掲載した大地蔵である。」 とも記されていました。

その雑誌は私の手元にありました。 雑誌には “真野・椿尾の石仏” も載っていました。

大地蔵から一段上がった所に、佐渡奉行を務めた竹村九郎右衛門の苔むした「五輪塔」がありました。

ご本尊の開帳を強要して突然目が見えなくなった 奉行は、仏罪を悔い自分の傲慢を謝罪したといわれています。 

山の奥深い高台に 「五智堂」 が建っています。 大日如来を中心とした五智如来さまを参拝して長谷寺(ちょうこくじ)を後にしました。

<長谷の大地蔵>   <五輪塔>     <五智堂>
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2009年5月30日

畑野・長谷寺

畑野に来たら是非寄ってみたいと思っていたのが、長谷の長谷寺(ちょうこくじ)です。

畑野の長谷寺は、大和(奈良県)の初瀬にある真言宗豊山派本山、長谷寺を模して造られたといわれています。

大同2年(807)、弘法大師が開基したと伝えられる、閑静な山間の古刹です。

我が家の宗旨も、畑野の長谷寺と同じ真言宗 豊山派です。 何故か親しみを感じさせてくれる寺院です。

     <仁王門>        <仁王像(吽形と阿形)>
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石段の上に仁王門が建ち、一対の仁王像が安置されています。

格子の隙間からカメラを向けて仁王像を撮りましたが、フラッシュが格子に反射して上手く撮れませんでした。

石段の両側には梅や桜、ボタンなどが植えられていて、ここ畑野の長谷寺も 「ボタン寺」 と呼ばれています。 

石段の右手には、観音堂へ上る 回廊 があり、鐘楼 があります。

   <観音堂へ続く石段>     <回廊にある鐘楼>
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石段を上りきると観音堂があります。 
観音堂には秘仏の十一面観音立像(国文化財)三体と、他に一体の十一面観音立像(県文化財)が安置されています。

十一面観音立像は、いずれも高さが約1m、カヤの木の一本造りと聞いています。 

秘仏は、三十三年ごとの御開帳以外は拝観できないといいます。

頭に十一の顔を持った十一面観世音菩薩さま、拝観できるものなら拝観したいところです。

十一面観音さまのご真言は、
  「おんまか きゃろにきゃ そわか」  合掌     つづく

   <石段の上の観音堂>    <参道に咲くボタン>
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2009年5月29日

畑野・慶宮寺

本光寺から1,5㎞ほど走った右手に、「慶宮寺」 への道案内が出ていたので回ってみました。

赤い大きな屋根の寺院は、真言宗豊山派 神護山 慶宮寺でした。

「大同2年(807)、快空法印の開祖といわれ、順徳院第一皇女慶子(よしこ)宮との関係で慶宮寺と称する。」 といいます。
 
ご本尊は大日如来で、佐渡八十八ヶ所霊場 第五十一番札所です。

・真言宗 神護山 慶宮寺 「山門」 と 「本堂」
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慶宮寺の境内には、新潟県有形文化財の 「八祖堂」 があります。

八祖堂へは、山門をくぐって苔むした参道を200mほど進むと、道路を挟んで 「八祖堂」 の標柱が立つ石段の前に来ます。

数にして50段ほどの石段を上った丘の上に八祖堂がありました。

・八祖堂へ上る石段       ・八祖堂(祖師堂)「案内」
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祖師堂の内陣には八角の回転する厨子があり、「八祖像が祀られている。」 といいます。

勉強不足です。 「八祖」 は知りませんでした。

帰宅後 ネットで調べたところ、真言宗の八祖とは、
竜猛・竜智・金剛智・不空・善無毘(インド)、慧果(中国)、弘法(日本)大日如来を加えたものといいます。

内陣の八角回転厨子と八祖像を拝観してみたかったです。

また、八祖堂はここ慶宮寺の境内と、小木の蓮華峰寺にあります。 前者は真言宗豊山派で、後者は真言宗智山派です。

知らなかったことが、今回の旅でまた一つ勉強になりました。

・丘の上の八祖堂(祖師堂)    ・八祖堂正面扉の文様
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2009年5月28日

畑野・本光寺

県道65号を車で走って畑野に入ると直ぐに、県道の左手に寺院が見えたので寄ってみました。

鎌倉時代、佐渡配流となられた日蓮上人ゆかりの寺院でした。

・日蓮宗 日朗山 本光寺 「山門」 と 「寺院案内」        
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本堂の扉に、「中をご自由にご覧下さい」 との張り紙があったので、靴を脱いで中に入り 堂内を拝観させてもらいました。

「これは信者へ配った残りですが、お一つどうぞ」 と、お寺の奥さまが袋に入った 「かきもち」 を下さいました。

豆の入ったおいしい 「かきもち」 です。 ありがたく頂戴したあと境内を見学させてもらいました。

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境内には、日蓮上人の腰掛石 「赦免石」 や 「袈裟掛けの松」 がありました。 ところが 「袈裟掛けの松」 は見落としてきました。

今でもその松は残っているのでしょうか? 確認してこなかったのが残念です。 wobbly

・日蓮上人腰掛石 「赦免石」 と 「赦免石の由来」
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2009年5月27日

真野・世尊寺&太運寺

夕方のカーフェリーで来島する長男を迎えに両津港へ行く途中、真野の史跡巡りをしようと県道65号に回りました。

真野の竹田に、県内で唯一の五重塔が建つ妙宣寺があります。

その手前に、まだ訪ねたことのない世尊寺があり寄ってみました。

・日蓮宗 法久山 世尊寺
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世尊寺は佐渡配流となった日蓮上人の高弟日興上人が開山した、佐渡宗門最初の道場といいます。

国府入道の寺ともいわれる世尊寺は、瀟洒な山門や茅葺の屋根の長屋門、庭園が美しい寺院としても人気があるといいます。

   <世尊寺の山門>     <茅葺屋根の長屋門と池>
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また世尊寺は佐渡七福神巡りの一寺で、「渋手大黒天」 が祀られているお寺です。

日蓮上人筆とされる「大黒天像一軸」は世尊寺の寺宝といいます。

・曹洞宗 寿宝山 太運寺

 <寺院入り口に並ぶ石塔>   <茅葺屋根の山門>
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寺院案内によれば、
「曹洞宗の寺院、高徳元年(1452)本間信濃守が雷澤山法久寺として貝塚村に建立したものと伝えられる。」

「永正3年(1506)雑太城主本間有泰(寺伝では、高泰・法号太運寿宝庵)が菩提寺として城の脇の現在地に移した。」

「江戸時代、佐渡国曹洞宗五ケ寺の一つで、御朱印地であった雑太城主累代の墓も境内にある。」 と、記されていました。

寺院案内を先に読んで参詣すれば、雑太城主累代の墓を見落とすことがなかったのにと悔やんでいます。

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2009年5月26日

新潟~佐渡島へ

去る19日午前10時過ぎ自宅を発って、高崎ICから関越自動車道、北陸自動車道を走って新潟港佐渡汽船ターミナルに着きました。

新潟港16時発のカーフェリーは、乗客定員1,520人、大型バスや乗用車を乗せる12,419 t の おけさ丸 です。

<画像下左> 大型客船カーフェリー「おけさ丸」の甲板(5F)
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<画像上右> 全長135mの「おけさ丸」の甲板(5F)で撮る

<画像下左> 佐渡両津港に向かうジェットフォイル(手前)
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<画像上右> おけさ丸の乗客からの餌を求めて飛ぶカモメ 

<画像下> どこまでも餌に群がって追いかけてくるカモメ
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18時30分、懐かしい佐渡島の両津埠頭に接岸しました。 つづく

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2008年12月12日

両津港~新潟港へ

12時35分、おおさど丸の船内で銅鑼(どら)が鳴り響き、見送りの人たちも下船しました。

12時40分、おおさど丸は静かにゆっくりと両津埠頭を離れました。

・両津港ターミナルビル     ・遠のいて行く両津港
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佐渡の表玄関両津港は、明治元年(1868)11月に新潟港と共に開港されたと聞いています。

佐渡島と本州を結ぶ航路は、
新潟~両津間、直江津~小木間、寺泊~赤泊間の3航路です。 

寺泊~赤泊間は一度だけ利用したことがありますが、メインはやはり新潟~両津間です。

これまでの51年余の間における帰省回数を調べたところ、38回を数えました。 その中で年に2度の帰省は6回ありました。

両親と義父が亡くなった時、観光で友達を連れて帰った時でした。 

  ふるさとの 山にむかいて いうことなし
       ふるさとの山は ありがたきかな   石川啄木

石川啄木の心境になって見ました。 20数年間を過ごした古里は、幾つになっても思い出の地です。

・新潟港ターミナルビル     ・信濃川の左岸風景
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2008年12月11日

両津埠頭

古里佐渡島を発ってから51年余が経過しました。 1年に1度帰省したとして51回ですが、そんなに帰ってはいません。   

当時、新潟 ~ 両津間の就航船は、ゆめじ丸(800トン)・おけさ丸(500トン)・こがね丸(600トン)でした。

昭和30年(1955)暮の帰省でした。 日本海が猛烈に荒れて欠航し新潟で3日間も足止めをさせられたことがあります。

そのとき旅費がなくなって、佐渡を出るときは親から旅費を出してもらって本土へ渡ったことがあります。

・カーフェリー「おおさど丸」(左) ・おけさばし(右)
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時代は大きく変わりました。
現在はカーフェリーおけさ丸(5,862トン)・おおさど丸(5,373トン)が就航しています。

新潟 ~ 両津間 63㌔の海上も2時間20分です。 しかも自分の車が運べるようになり、楽しい旅行ができるようになりました。

カーフェリーを下りて、最初にに目につくのが能面のついた歓迎塔です。 佐渡は能が盛んなところです。
 
島内には32の能舞台が残るといいます。 特に、かやぶき屋根が美しい大膳神社の能舞台が有名です。

カーフェリーからターミナルにへ進む途中で、美人のおけさ嬢(?)が出迎えてくれます。 また、新潟へ向う時は見送ってくれます。

美人のおけさ嬢に記念撮影をお願いしたところ、快く受けてくれました。 年寄りと一緒の画像では気の毒です。 トリミングしました。 

カーフェリー就航時には、船内放送で 「佐渡おけさ」 が流れます。

♪ ハアー 島の乙女の黒髪恋し 又も行きたや花の佐渡

♪ ハアー 佐渡へおいでよ夏冬なしに 山に黄金の花が咲く

懐かしい古里佐渡島、次に帰省するのはいつでしょうか。 happy01

・歓迎の能面(左) ・美人おけさ嬢(中) ・おけさ人形(右)
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2008年12月10日

両津湊町の社寺

両津欄干橋の見学を終えて両津埠頭に戻ろうとしたところ、石造りの明神鳥居が見えたので回って見ました。

鳥居には、「八幡若宮社」 の額が架かっていました。 鳥居をくぐると右手に北一輝・昤吉兄弟の 彰徳碑 がありました。 

・八幡若宮神社(左)      ・北兄弟の彰徳碑(右)
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兄北一輝(1883~1937)は、両津湊町の酒造業を営む北慶太郎の長男として生まれ、本名は輝次郎といいます。
2・26事件の思想的背景をつくったとの理由から、54歳の時に銃殺されたものです。

弟の北昤吉(1885~1961)は、衆議院議員当選8回、自由党の幹事長も務め占領下の政治や政党に大きく貢献したといいます。 また、政治評論家、教育者としても名のあった人です。

昭和27年(1952)10月、佐渡で初めて選挙権を得た第25回総選挙で、北昤吉氏に一票を投じた記憶があります。

・えんなむ堂
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湊町5丁目通りに入ると、拾番組 「えんなむ堂」 の看板がかかる、お堂の前に来ました。 
 堂内を覗いて見ると、やや大きめの六地蔵と小さな見替わり地蔵がたくさん並んでいました。
ここ湊町5丁目も地蔵信仰の盛んな土地柄と思いました。

・日蓮宗 「妙法寺」
042 えんなむ堂横に日蓮宗妙法寺がありました。
 門前に、新潟県の文化財
洛中洛外風俗図屏風」 の案内が出ていました。 
「この屏風は、元和(1615~24)ころの作と推定される。」
「屏風には、都(京都市中内外)の風景や建築物、風俗などが詳細に描かれていて、当時の庶民の生活を知るうえでも重要な歴史資料となっている。」       両津市教育委員会 
と、記されていました。

保管庫前には 「庫内撮影禁止」 の張り紙が出ていましたが、歴史的資料となる風俗屏風を一度拝見してみたかったです。

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2008年12月 8日

両津の名所

佐渡民謡に、佐渡おけさ、小木おけさ、選鉱場おけさ、相川音頭に、両津甚句 があります。

哀調を帯びた独特の節回しと、面白いお囃子の両津甚句は、私の好きな佐渡民謡です。

♪ アーエ 松になりたや 御番所の松に (コラ サッサ)
   枯れて落ちても ヨンヤー 二葉連れ
               (ア リャント リャント リャント)

・天然記念物 「御番所の松」 こと 「村雨の松」 
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御番所があったことから 「御番所の松」 と呼ばれていたが、佐渡に来た尾崎紅葉が 「村雨の松」 と命名して今に伝わるといいます。

樹高20mに近いクロマツは大きく広がり、カメラに収まらないほどに見事なマツでした。

また、私の好きな両津甚句に、「両津欄干橋」 があります。

加茂湖を挟んで、旧夷町と湊町を結ぶ橋が 「りょつはし」 で、甚句に唄われる 「両津欄干橋」 です。

♪ アーエ 両津欄干橋 真中から折りょうと (コラ サッサ)
   船で通うても ヨンヤー やめりゃせぬ
               (ア リャント リャント リャント)

・「りょうつはし」(左) と ・「らんかん橋の由来」
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現在、夷町と湊町を結ぶ橋は並列して3本あります。 
加茂湖側から 「かもこはし」、「りょうつはし」、「両津大橋」 です。

♪ アーエ 行こうか湊町 もどろうか夷 (コラ サッサ)
   ここがしあんの ヨンヤー 両津橋 
               (ア リャント リャント リャント) 

また、「かもこはし」 は歩行者専用で、車が通れません。

一周約17,2kmという加茂湖は、塩水湖でカキの養殖で有名です。

・かもこはし(左) と ・両津大橋(右)
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2008年12月 6日

励風館

佐渡市沢根五十里(いかり)城ノ下の 「励風館」 を訪ねました。

励風館は、沢根五十里田中町の酒屋の主人矢島主計(かずえ)が、文化7年(1810)に創設したといいます。

田中町は私の生家のある所です。 ここにきて初めて知りました。

・励風館への上り口の門(左) ・茶室風の励風館(右)
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江戸の儒者亀田鵬斎の門人であった矢島主計は励風館を創設し、亀田鵬斎が滞在して講義したのが学校の始まりといいます。

励風館には貴重な文化財が残るといいます。 向学のため拝観してみたいのですが、管理状況が分かりません。

励風館と並んで、「青野季吉ペンの碑」 が建っています。 

・青野季吉ペンの碑
018 文芸評論家青野季吉(1890~1961))は、沢根下町の青野屋に生まれました。 
 日本文芸協会長、芸術院会員を務めた人物です。 「ペンの碑」 には、
  少年の日 わたしは
  この美しい入り江の岸辺に
  ぼんやり立っていた
  何を待つともなしに 
        昭和30年春 季吉

と刻まれた、銅板がはめ込まれています。 青野季吉はこよなく古里を愛していたようです。

励風館から一段上の台地に、初代本間琢斎の碑がありました。

・初代本間琢斎之碑
024 碑文案内によると、 
 「翁は、文化6年(1809)に柏崎の鋳金家原氏家に生まれた。」
 「業を父に学び弘化4年(1847)幕府の命により、沢根鶴子において大砲数門を蝋造した。」
 「後に沢根五十里の本間家に入り、蝋型による工芸品を多く蝋造した。」 と記されています。 

初代琢斎翁は、佐渡における蝋型鋳金技術の先駆者でした。

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2008年12月 4日

佐渡むじな

河原田の寺町通りを発って家路に着きました。 途中で佐渡の土産品を探そうと 「シルバービレッチ佐渡」 に寄りました。

・レストラン前の石碑 「鬼太鼓」
015 ところが、土産店はなくなり、レストランのみが営業していました。
 以前のシルバービレッチ佐渡は、佐渡の特産品が並び、店頭では佐渡の郷土芸能 「文弥人形芝居」 が上演されていました。 


文弥人形といえば、子どものころ薬師堂などの夜祭りで、一番前に座って 「牛若丸と弁慶」 を観て興奮した思い出があります。

国道350号を相川方面に向かって自転車をこいで窪田に来ました。

・狢が出ると噂のあった竹藪
088 日朝寺付近にきて、
 子どものころ、狢(むじな)の怖い話を聞いて通れなかった竹藪の前に来ました。

 今のように、車の往来が多くなく、人の行き来も少なかった貧しい少年時代です。

 「村のはずれを通っていたら、あかごの泣き声がした。」
 「○○さんが、祝い事の帰りに田んぼの肥桶風呂を浴びていた。」
 「××さんが、親戚のお祝いの帰りに、御馳走の油あげを取られた。」 などなどです。

子ども心に怖い話を聞いた後は、親戚の家へ行くにも遠回りをして、海岸の砂浜を歩いて通った思い出があります。

その竹藪も時代とともに明るくなり、地蔵堂とその脇に首から上のない石地蔵2体が並んでいました。

佐渡には、タヌキはいますがキツネはいません。 佐渡のむじなは佐渡金山の鎔鉱鞴革の材料にするため、石見の国から連れてきたのが始まりと聞いています。

また、むじなといえば相川の 「二つ岩団三郎」、外海府の 「関の寒戸(さぶと)」、「徳和の禅達」 が有名です。 
むじなは岩穴に棲むといわれ、岩穴の祠に祀られています。

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2008年12月 2日

窪田~河原田へ(2)

昭和29年7月、旧沢根町と河原田町、旧二宮村と八幡村の4ケ町村が合併して佐和田町ができました。

現在は、佐渡10ケ市町村が合併して佐渡市となっています。

昭和20年代後半における、私の青少年時代の商業・文化の中心地は旧河原田町でした。 

・河原田諏訪町「諏訪神社」(左) ・普照山専念寺「山門」(右)
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佐渡交通の中心地、河原田諏訪町の新潟交通バス会社、映画館 「入江座」、本町の商店街 などが思い出の地です。

懐かしい入江座もすでになく、郊外に大型店が進出して本町商店街も活気が乏しいようです。 時代は移るの感があります。

・諏訪町「諏訪神社」
町商工会の隣にある 「諏訪大明神」 です。 4月27日の河原田祭りで賑わうところです。
参拝に寄った時は、氏子の人たちが落ち葉の清掃をしていました。 

・真宗大谷派 普照山専念寺
山門前の 「掲示板」 に、次のような教えが出ていました。
「願いをかけることは美しい
  でもわたしが願われていることに気づくことは もっと美しい」

ここは寺町通りです。 それぞれ宗派の違う寺院が並んでいました。

・法華山妙經寺「二王門」(左) ・松雲山本田寺「山門」(右)
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・日蓮宗法華山妙經寺
朱塗りの大きな仁王門は威厳があります。 長い参道を進むと楼門が高くそびえています。 
楼門をくぐると、参道の左手に宝物殿、祖師堂が並び正面に大きな本堂があります。

・曹洞宗松雲山本田寺
ご本尊は、釈迦牟尼仏です。 佐渡八十八ケ所第八番札所でした。
山門前に大きな地蔵菩薩座像が安置されています。 
山門をくぐると左手に、大きな東福城主墓がありました。 東福城主とは、初めて聞く城主名です。

若いころは気にも留めていなかった事が、この寺町通りに来て興味がわいてきました。 happy01

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2008年12月 1日

窪田~河原田へ

朝の釣りから帰って時間があります。 自転車を借りて思い出の地 「窪田」 を 回ってきました。

国道350号を河原田方面に向って、自転車で数百mほど走ると左側に真宗大谷派の 「西光寺」 の山門が見えました。

・無碍光山西光寺(左)     ・鐘澄山日朝寺(右)
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掲示板に、
ただ一言 『すみません』 これでお互い気がなごむ」 との教えが張り出されています。

本堂前で参拝を済ませて境内を見回しますと、ここは無人のお寺さんのようです。 境内には名のある鐘楼がそびえています。

西光寺からさらに数百m進むと、日蓮宗 「日朝寺」 がありました。 新しく建て直したお寺さんです。 昔の面影が浮かんできません。

自転車でさらに東へ数百m走って、「窪田観音堂」 に着きました。

窪田観音堂の由来 によれば、
「今から約800年前(1141)、白田家の先祖おさる姫が自身の守り本尊として、京都から戦いに破れ都落ちして、佐渡のこの地に流れてきたものと、先祖代々言い伝えられて来ました。」

「白田家は今日も続いていますが、江戸時代の後期 窪田村の守り本尊として、村人の信仰を集めるに至り、明治時代に入って村人の要望もあり、窪田村へ差し上げ窪田観音堂と名付けたものであります。」 と、記されています。

観音堂のことは「窪田観音堂の由来」を読んで初めて知りました。
ご本尊は十一面観世音菩薩です。 
今日は縁日でしょうか、観音堂で念仏講があったようです。 

観音堂の前に、「四国八十八箇所本尊奉安所」、お堂の左手には 「地蔵堂」 があり、それぞれ石仏が並んでいました。 

ここ窪田は、信仰心の篤い地区のようです。     合掌

・十一面観音堂(左)   ・四国八十八箇所本尊奉安所(右)
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2008年11月30日

東野の「御滝」

午後に時間があったので少年時代の思い出の地、五十里(いかり) 東野の集落を訪ねました。

五十里炭屋町の裏に出ると、東野の集落と雪を頂く標高1,172mの金北山、その手前に標高1,042mの妙見山が望めます。

・金北山と妙見山を望む(左) ・御滝へ向う山の紅葉(右)
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佐渡で一番高い金北山とそれに続く妙見山は、中学3年生のとき、秋の遠足で登りました。
この二つの山も、今は航空自衛隊のレーダーサイトとなっています。

東野の集落を過ぎて沢に下りるとたんぼ道が続きます。 そのたんぼ道を800mほど歩いて行くと不動堂が見えてきます。

・御籠り宿と不動堂(左)    ・不動堂裏の「二の滝」
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この不動堂には少年時代の思い出があります。 
病気回復のため、姉がこの不動堂で数十日間御籠りをしたことがあります。 (その姉も95歳、施設で静かに余生を送っています。)
 
小学校2年生か3年生だったでしょうか、学校から帰ると、姉の長男(同年の甥)と二人で、米・味噌・醤油・野菜などを入れた風呂敷包みを背負って、片道約5キロの山道を不動堂まで通ったのです。

・「一の滝」
063 道路は今のような舗装道路ではありません。 
 季節は、レンゲツツジやタニウツギが咲く6月(初夏)のころと記憶しています。
 その不動堂も今は住む人もなく、すっかり荒廃しています。 
 また、不動堂の裏山にある 「一の滝」 から 「二の滝」、「三の滝」 周辺も、手入れが行き届かず鬱蒼としています。 
御滝の周りには蛇がいて怖かった記憶があります。

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2008年11月28日

旅館 「入海」

義父の33回忌法要が終って、会食会場である旅館 「入海」 へ向かいました。 旅館 「入海」 は歩いて行けるところにあります。

・旅館 「入海」 の正面玄関
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 ・玄関の布袋尊
049_2 平屋で和風の玄関を入ると、正面の布袋尊が出迎えてくれます。
 静かな落ち着いた雰囲気の旅館 「入海」 には温泉があります。
 脱衣場に、
佐和田温泉の由来」 が掲示されていました。

「入海の創業者、先代須田嘉四郎は金井町平泉にある弘法大師様の熱心な信者でありました。

昭和45年、温泉掘削にあたり、掘っても掘っても何も出てこないので、もう少し掘ってみようか、それともここで止めてしまおうかと悩みました。

悩んだ末弘法大師様に問い聞きにいきましたら、もう少し掘ると七色に輝く湯が三ケ所から出るというお告げがありました。

それから数日後、今の黒い温泉の湯脈にあたり、地上15mも吹き上げたと言われています。」   (「佐和田温泉の由来」 より)

コーラ色の温泉は、肌に優しく体の芯まで温まります。 
効能は、創傷、皮膚角化症、リュウマチ性疾患、運動器障害、
      慢性湿疹、虚弱児童、更年期障害 と、いいます。
 
ゆったりと湯に浸かったあとは、入海直営の佐和田鮮魚センター 「かすけ」 の鮮魚を使った海鮮料理を美味しく戴きました。

夜は、アミューズメント佐渡へ 「ハンドフルートのしらべ」 を聴きに行きました。 両手で奏でる神秘的な音色に酔いしれてきました。

会館事務所前に、来年の第64回新潟国体のマスコット 「トキ」 を見つけました。

大会のスローガンは、「トキはなて 君の力を 大空へ」 です。
9月25日に放たれたトキは11月26日現在、7羽が確認されたといいます。 (トキ情報:佐渡トキファンクラブ 「放鳥トキ情報」 より)

・温泉湯元源泉(左)   ・新潟国体のマスコット「トキ」(右)
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2008年11月26日

新潟港~両津港へ

8月は妻の同窓会で古里佐渡島へ帰省し、11月は義父の33回忌法要で帰省しました。

20日に雪が降ったと聞いたので、マイカーの帰省は諦めて高速バスで新潟に向かいました。

3連休とあってか観光客もいて、きっぷ売り場は混んでいました。

・佐渡汽船きっぷ売り場天上の嬉しいニュースの横断幕
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 「佐渡の世界文化遺産登録 暫定リスト記載決定!」 の嬉しい横断幕を見ながら 「おおさど丸」 に乗船しました。

今日は日本海が荒れています。 信濃川の風景をカメラに収め、早々と毛布を借りて客室に戻り仮眠しました。

・おおさど丸の出港案内(左) ・信濃川の左風景(右)
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本線は、只今両津湾内に入りました。」 との船内放送を聞いて船室を出ました。

湾内に入ったおおさど丸の左舷では、群がるカモメに餌を与えていました。 右舷に回ると、両津港のシンボル 「おけさ灯台」 が来島者を迎えてくれます。

赤いおけさ灯台をカメラに収めて、雪を頂く大佐渡山脈を眺ていると、おおさど丸は両津港埠頭に無事接岸しました。

・カモメと両津湾内に入る(左) ・両津港の「おけさ灯台」(右)
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2008年11月16日

佐渡準市民

平成20年7月、佐渡島出身者の私の所に、「佐渡準市民」 の会員募集の案内が届きました。

国際保護鳥 「トキ」 が生息する佐渡島は、青少年時代を過ごした私の古里です。 さっそく準市民登録を済ませました。

・創刊号 『えーる』
002_4 それから1か月後、
 佐渡市役所から佐渡島の情報誌
 『えーる』 が送られてきました。 
 情報誌を懐かしく読み進むうち、券末の
 「アンケート」 に回答して送ったとこころ、
 見事に当選しました。 coldsweats01
 賞品は、朱鷺と暮らす郷認証米
 「佐渡産コシヒカリ」(新米2㎏)です。

普段くじ運が悪い私が当選したことに驚き、嬉しさのあまり当選賞品をカメラに収めて、証拠写真を残しました。 happy01

ところで、9月25日に放鳥したトキのことが気になり、インターネットで調べてみました。 pc

「放鳥から50日目の11月14日現在、確認されたトキの数は6羽」 といいます。 
また、「確認できた放鳥トキのうち1羽は、本州に渡り新潟県岩船郡関川村で確認された。」 ともいいます。
     (以上、放鳥トキの情報は「佐渡トキファンクラブ」 より)

トキ野生復帰を願うトキファンクラブの一人として、放鳥トキが一刻も早く大自然に馴染み、大空を羽ばたいてほしいと願っています。

画像下の右は、「トキ野生復帰シンボルマーク」 です。 トキが抱いているのは、佐渡を象徴する美しい海と山、川の自然です。
 
・コシヒカリのチラシ ・佐渡産コシヒカリ ・シンボルマーク
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2008年11月15日

小木~直江津へ

12時50分発の 「カーフェリー こがね丸」 の出港まで、少し時間があります。 港周辺をぶらぶら歩きをしてみました。

私の好きな佐渡おけさに、
 ♪ 小木は澗(ま)でもつ 相川 山で 夷みなとは 漁でもつ

小木海岸の中央に突出している半島城山があります。 その城山に向かって右側が 「内の澗」、左側が 「外の澗」 と呼ばれています。

・派出所の看板(右)
048_2 カーフェリー こがね丸の発着する小木港は外の澗にあります。 
 佐渡汽船ターミナル前の派出所の看板が、おけさ踊りの 「菅笠」 を着けています。 
 佐渡はおけさの島と実感しました。 
 小木おけさに、
 ♪ 小木の入り江も 静かに暮れて
         とまり舟より 立つけむり

小木港は、松前船などが停泊し 出船千艘・入船千艘と栄えてきた港です。 小木おけさから穏やかな港の夕暮れを思い浮かべます。

・小木埠頭のこがね丸(左)  ・だんだん遠くなる佐渡島(右)
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カーフェリー こがね丸の甲板で、秋の気配を感じながら 少しずつ遠のいてゆく佐渡島を眺めて船内に入りました。

船内の売店前に、金属工芸家宮田亮平氏のイルカをモチーフにした作品 「飛躍」 が展示されています。

宮田亮平氏(現東京芸術大学学長)の実家は、生家のすぐ近くで、父(第二代)宮田藍堂氏(故人)は、蝋型鋳金工芸家でした。

・こがね丸の甲板に並ぶ救命具(左) ・イルカの 「飛躍」
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   ものの芽の 紅さ小ささ 指に撫ず  宮田藍堂

昔、句会でお世話になった故人の一句です。 今でも思い出します。

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2008年11月13日

沢崎鼻灯台

佐渡汽船 「こがね丸」 の出港まで時間があります。 回り道をして小佐渡最南端の 「沢崎鼻灯台」 を訪ねました。

佐渡の海岸には32基の灯台があるといいます。 佐渡汽船の観光案内 『佐渡』 (2005年版)に、代表的な灯台8基が載っています。

  one 両津湾のおけさ灯台、  two 佐渡北端の弾崎灯台
  three 外海府の関岬灯台、   four 尖閣湾の大埼灯台
  five 七浦海岸の長手岬灯台six 佐渡南端の沢崎鼻灯台
  seven 前浜海岸の鵜ノ瀬灯台eight 小佐渡東端の姫崎灯台

・高さ約24,2mと佐渡一番のノッポ灯台「沢崎鼻灯台」
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ところで生家に一番近い二見の台ケ鼻灯台が載っていません。 

台ケ鼻灯台下の海岸は景色がよい所です。 また、沖合には、
伊勢朝日 佐渡の二見の夕日かな」 といわれる 「双股岩」 があり、双股岩を眺めながら海水浴を楽しんだ思い出があります。

沢崎鼻灯台から一段上の台地一帯は、「岡の平遺跡」 です。

江戸時代末期、異国船の来襲に備えて砲台場が造られた跡地で、佐渡市の文化財(史跡)に指定されています。

灯台下の台地から海岸を眺めると 「波蝕欧穴」 が見られます。 
また、真野湾を眺めると、外海府の大野亀に似た小さな 「神子岩」 が見えます。 その手前に 「筍岩」 を望むことができます。

シーズン中、この辺りにはイワユリやカンゾウの花が見られます。 今回の帰省では、葛の花が甘い香りを漂わせていました。

・台地先端から海岸を撮る(左) ・手前の筍岩と神子岩(右)
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2008年11月11日

古里の海「真野湾」

少年時代を育んでくれた古里の海、波穏やかな真野の入り江は、「佐渡おけさ」 と共に心に残る古里の海です。

佐渡おけさ
 二見夕焼け 三崎がかすむ 真野の入り江に 立つかもめ
 おけさおけさに つい浮かされて 月も踊るか 佐渡島
 むかし思えば 涙がうるむ おぼろ月夜の 恋が浦

・真野湾(中央から左側が「外三崎」、右側が「台が鼻」)
003

昭和22年(1947)5月は、日本国憲法が施行した年です。 
また、国民学校が新制中学へ移行し、3年生に編入した年です。

終戦直後は、食量難、物不足の時代でした。 離島佐渡島の生活も厳しいものでした。 think 

たまたまその年の8月、今まで釣れなかったソウダカツオが獲れるようになりました。 happy01

学校の夏休みも過ぎた9月半ば頃まで、深夜の2時ころから父の舟に乗ってカツオ漁を手伝いました。   

それから60年余の歳月が流れました。 今ある幸せを思うとき苦労した昔を思い出しながら真野湾を眺めています。

月遅れのお盆が過ぎて気候の変わり目でしょうか、静かな真野湾も今日は少し波風があります。 cloud  

久しぶりの帰省です。 海釣りの計画をして帰省しています。 釣りに出たいところです。

一夜明けた午前4時過ぎ、真野湾は凪いでいました。 身内の舟に乗せてもらいアジ釣りに出ました。

約2時間の釣果は、フクラゲ(1匹)、イワシ(5匹)、アジ(37匹)でした。 午前9時過ぎ満ちたりた気分で古里を発ちました。

・帰宅前日の真野湾と釣り船(左) ・帰宅当日の釣果(右)
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2008年11月 7日

真野・椿尾の石仏(続)

佐渡は石仏の多い島です。 特に石仏が多いところは、願集落の 「賽の河原」、畑野の 「長谷寺」、真野の 「梨の木地蔵」 です。 

椿尾は江戸時代から石細工が盛んな村といい、石工技術に優れた人物が出たところと聞いています。

収蔵庫の左側に並ぶ六地蔵菩薩座像は名工 五平の作、右側に並ぶ七観世音菩薩坐像は善平の作といいます。

・収納庫の六地蔵菩薩と向き合って並ぶ七観世音菩薩
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「七観世音菩薩縁起」 によれば、

「中央の聖観音の台座石に、嘉永五壬子歳二月二一日(1852)、当村石工善平の刻字が確認できる。」 と、記されています。

七観音といえば、聖(正)・千手・馬頭・十一面・准胝(じゅんてい)・如意輪・不空羂索(ふくうけんじゃく)観音をいいます。

七観音の並び順を確認しようと思いましたが、収蔵庫の中は明かりもなく薄暗くて、名工の観音様を思うように鑑賞できません。 despair
 
家に帰って確認しょうとカメラに収めてきましたが、照明不足で画像がはっきりしません。 中央の聖観音だけが案内で知るのみです。

収蔵庫を出て裏に回ると、視界が開けた台地から波穏やかな日本海が見渡せます。 

台地には如意輪観音と諸仏が、また断崖には無数の石地蔵が西の彼方を向いて並んでいます。
夕焼け迫る西方の 「極楽浄土」 を見つめているのでしょうか?

佐渡おけさ
 ♪ 真野の御陵(みささぎ) 松風さえて 袖に涙の むらしぐれ

高台の諸仏と断崖から西の彼方を見つめて並ぶ地蔵尊
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2008年11月 5日

真野・椿尾の石仏

生家の菩提寺跡の話をしていたら、真野町椿尾の六地蔵尊は有名だからと連れて行ってくれました。

字名のとおり、椿の多い坂道を登った丘の上に石仏がありました。

・堂内の両側に並ぶ六地蔵菩薩(左)と七観世音菩薩(右)
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仏像は、十畳一間くらいの薄暗い収蔵庫の中にありました。

左側に如意輪観音坐像を真ん中にして六地蔵尊坐像が、右側には七観世音菩薩坐像が並んでいました。

収蔵庫前の 「六地蔵菩薩・七観世音菩薩縁起」 によれば、
「この場所は、岩本山地蔵堂で、真野町大字椿尾字世利川内で、小比叡山蓮華峰寺の末寺であった。」

「元、金林山五泉寺が明治41年本寺へ合併した時に、この地に移転した。」 とあります。

「向って右側三体には法印長慶蔵為、左側三体に法印長栄蔵為と刻字が読まれ、石工の名前はない。 島内第一の名工、五平の作といい伝えられている。」

「六地蔵の中央に安置されている如意輪観音様は、当所和讃講中が六地蔵と同時に建てたものである。」 と、記されていました。

・如意輪観音を中央にして両側に並ぶ六地蔵尊
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地蔵菩薩は、釈迦涅槃後、弥勒菩薩の出現までの間、仏陀に代わって衆生を救うといわれています。

六地蔵尊の呼び名、持ち物、並び順は決まっていないといいます。 私は、地蔵尊の持ち物から自分流に観賞し拝観しています。

<画像上>六地蔵尊左から
 幢を持つ:宝印地蔵(畜生道)、 合掌印:持地地蔵(修羅道)、
 錫   杖:檀陀地蔵(地獄道)、 香  炉:日光地蔵(天  道)、
 施無畏印:宝珠地蔵(餓鬼道)、 数 珠:除蓋障地蔵(人間道)

椿尾の名工、五平作と伝えられる、ふっくらとした頬と円い穏やかな顔立ちの六地蔵尊に出合い心が落ち着きました。   (つづく)

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2008年11月 3日

真野宮

佐渡国分寺が置かれた真野町は、史跡の多い所です。 
順徳院御腰掛の松を見学してから真野宮へ向かいました。

・真野宮(順徳天皇御在所遺跡) 
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真野宮は、   
順徳天皇を奉祀し、菅原道真・日野資朝を配祀している。
天皇は在島22年、仁治3年45歳で真野宮(真輪寺)で崩御された。
大正9年 現社殿造営、昭和17年 700年祭に神域を拡張した。
          (以上、神社入り口の「案内板」より)

・昭和天皇参拝記念植樹
08_2 参拝のあと境内を見て回ると、
 昭和天皇御参拝記念植樹の黒松が大きく育っていました。 
 昭和31年7月19日と記されています。
 また、境内右奥には、真野町文化財第1号指定の「真輪寺一石五輪塔」や真野宮境内に移築した「真野町三貫目沢西古墳」(えぞな)などがありました。

えぞな古墳は、横穴式石室の円墳で、出土品は人骨、直刀、鉄鏃、土器など6世紀半ば 「えぞ」 と呼ばれた人たちが渡来し築いたものといいます。

初めて聞く話です。 佐渡の歴史を勉強する上で参考となります。

・真輪寺一石五輪塔
03 真野宮から御陵へ行く途中に、
 順徳天皇お手植えと伝えられる古木 「石抱きの梅」 があります。

 また、真野の入り江の海岸には順徳天皇が御着船したと伝えられる 「恋が浦」 があります。
次に帰省した時に訪ねてみたいものです。

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2008年11月 1日

八幡・御腰掛けの松

中国張家界 「武陵源」 旅行等で、9月16日で一時中止していた 「佐渡島」 帰省レポートを続けます。

佐渡博物館へ行く途中にある、「順徳院御腰掛の松」 を訪ねました。

・順徳院御腰掛の松
04 太平洋戦争終結後の新制中学校になって、最初の修学旅行だったかで、一度だけ訪ねたことがあります。
 この辺りだろうと来て見ましたが分からず、結局、出合った人に聞きながらやっと行き着きました。

順徳帝は、後鳥羽天皇の第三皇子で、承久3年(1221)の 「承久の乱」 に破れて佐渡配流となりました。 25歳の若さといいます。

その順徳帝が、八幡の御所近くで遠く都を偲ばれた時、御腰掛になられた松が 「順徳院御腰掛の松」 として今に残るものです。

少年時代に訪ねた時の記憶はありませんが、現在は2代目の松が生育していました。 happy01

案内によれば、
「御腰掛の松は、平成7年に松食虫により枯死して伐採した。」

「その伐採時、子松として幹の間に芽吹いた松の苗を、町制50年を記念して再びこの地に植樹した。」 とありました。

古木の枯れた幹の横に、すくすくと育つ若松を見て安心しました。

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2008年9月16日

佐渡博物館(続)

博物館の正面ホールに、佐渡を象徴する特別天然記念物 「朱鷺」 の複製がありました。

Photo 博物館の1階は、
 美術・工芸展示室です。
 2階は自然・考古・歴史・展示室と土田麦僊素描展示室です。
 <画像左:博物館のパンフ>

05 博物館の見学は、一度だけ見たのでは覚えきれません。
 カメラに収めてきた画像をあとで見て、パンフレットなどと照合してはじめて理解し納得します。 
 館内は、2階展示室が撮影禁止です。 その他はフリーでした。
 <画像上:朱鷺の複製(※9月25日に、朱鷺が放鳥されます)>

私が興味を覚えたのが、2階の歴史コーナーにあった十王像です。
十王信仰について勉強してみたいと思って、メモを取ってきました。

・秦広王(初 七 日) ・初江王(二十七日) ・宗帝王(三十七日)
・五官王(四十七日) ・閻魔王(五十七日) ・変成王(六十七日)
・太山王(七十七日) ・平等王(百 ケ 日) ・都市王(一 周 忌)
・五道天輪王(三 周 忌)

06 1階の美術・工芸展示室では、佐渡のやきもの展が開かれていました。
 また、博物館の裏には、江戸時代末期の佐渡の民家を利用した民具の展示や、佐渡の石を集めて造ったロック・ガーデンがありました。

初めて訪れた佐渡博物館は、次回もゆっくり訪ねてみたい所です。

・お知らせ! coldsweats01 
ブログは1Wほどお休みします。 次回からまた宜しくお願いします。

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2008年9月15日

佐渡博物館(1)

佐渡の自然・風土・歴史・芸術など、貴重な資料や作品が展示されている佐渡博物館を初めて訪ねました。

・世阿弥の「佐渡書状」の碑
01 博物館の前に、
 佐渡配流となった世阿弥が、金太夫に宛てた手紙の訳文碑が建っていました。 
 ・配流後における佐渡の生活
 ・鬼能のことと能の流儀のこと
 ・田舎における粗末な紙質などが、訳文碑に記されているといいます。

・義民太郎右衛門の供養塔殉国碑
02 供養塔殉国碑は、
 博物館の前庭に建っていました。 
 義民太郎右衛門は、山田村の名主で、
 「天文元年(1736)、国府川右岸の砂丘地帯を畑にする計画が持ち上がり、その代表名主として活躍した。」
 「砂丘地帯に松と樫を植えて砂防林をつくり、広い畑で野菜作りを奨励しそこに辰巳村生まれた。」

「辰巳村の野菜は、鉱山の町相川が供給地だった。」 といいます。

子どもの頃、リヤカーに野菜を積んだ八幡村の人たちが、朝早くから相川の町へ通うのを見てきました。

輸送手段が なかった時代のことです。 昔から続いていたのでしょうか。 ここで当時の謎が一つ解けたような気がします。

太郎右衛門の墓は、二宮山田の宗念堂の境内にあるといいます。

・金丸の人切石
義民太郎右衛門の供養塔の前に、「人斬り石」 という大きな石がありました。

石の側にあった 「説明文」 を読んで、なるほどと納得しながら博物館に入りました。                (つづく)

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2008年9月14日

白山神社と長安寺

旧菩提寺 「金北山吉祥寺跡」 の西野村から沢を一つ越えて田中の集落へ来ました。

古里を発って50数年、少年時代に遊んだ山や川など、懐かしい風景と出合います。

子どものころ、広くて遠いように感じていた山道なども、歩いてみると近くにあって狭い道のりです。 

・白山神社
12 氏神様の白山神社、広いと思って遊んだ境内や大きいと思って眺めた鳥居も、今はその広さや大きさを感じません。
 太平洋戦争が始まったのは昭和16年(1941)12月8日、小学校3年生のときでした。

学校から帰ると神社の境内に集まって、竹の棒を振り回し松ぼっくりを投げ合ったりして、戦争ごっこの遊びをしました。

その神社周辺も樹木が茂って、すっかり様変わりをしています。
 
13 古里の沢根五十里も少子高齢化が進んでいます。 
 高台にある白山神社の境内は、手入れが行き届かず雑草が茂っています。
 最近塗り替えられたという、朱色の鳥居だけが目立って見えます。

ここ白山神社の祭礼も、「弥三郎婆」の伝説が残る9月20日です。

若い衆が担ぐ神輿が123段の石段を渡御する様は勇壮で、子ども心に早く若い衆となって神輿を担いでみたいと思ったものです。 

その秋祭りも、今は4月の春祭りとなりました。 神輿の担ぎ手がなく神輿渡御は行われず、時代は大きく様変わりしました。

・菩提寺長安寺
15 真言宗豊山派長安寺は、静かな山合いの田んぼが広がる羽二生の集落にあります。
 近くに海蝕崖で知られる 「沢根の崖」 があります。
 大佐渡山脈東南側の丘陵地帯に露出した崖です。

中学3年生の理科の時間に、この断層が続く山間部の貝塚でホタテ貝やタマキ貝などを収集したことがあります。

長安寺から直ぐの海辺に出て、左手に広がる沢根の崖を眺めながら少年時代を懐古しました。 

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2008年9月13日

古里の菩提寺跡

古里の我が家の菩提寺は、子どものころに訪ねただけでその後廃寺となって数十年が経ちます。

菩提寺があった西野村の、「金北山吉祥寺跡」を訪ねました。

0104_2

西野村へ続く山道は、夏を惜しむかのようにつくつく法師蝉が鳴いています。 坂道を上った台地の田圃は、稲穂が垂れて実りの秋を迎えようとしています。

菩提寺跡の手前数十mの所に、懐かしい金北山神社があります。

<画像上:西野村の田園風景(左)・茅葺屋根の金北山神社(右)>

・金北山神社
「御祭神は、大彦命(おおひこのみこと)、武神で民生安定の神。」

「第10代祟神(すいじん)天皇の御代に、国内鎮護のためそれぞれ四地方へ派遣された、四道将軍の一人。」

「大彦命は北陸道へ、吉備彦命は西道へ、丹波道主命は丹波(山陰道)へ、武渟川別命は東海道へ派遣された。」
と、神社由緒に書いてありました。

金北山神社の例大祭は9月20日です。 この日は朝から天気が良くても、午後になると必ず嵐が来たという思い出があります。

9月20日は、「鬼になった弥三郎婆」、「腕を切られた弥三郎婆」など 「弥三郎婆」 について、子ども時代に怖い話を聞いた伝説の残る日です。

数は少ないが露店が並び、祭り太鼓に浮かれて興奮した子どもの頃を思い出す金北山神社です。

・金北山吉祥寺跡
菩提寺跡の入り口には、跡地管理者の標柱と小さなお堂が建ち、その脇に穏やかなお顔の石仏が並んでいました。

誰も訪れることのない跡地には、通路沿いの静かな池にゆったりと泳ぐ錦鯉が印象に残ります。

<画像下:廃寺跡に通じる池の鯉(左)と跡地入口の石仏群(右)>

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2008年9月12日

キリシタン塚(続)

佐渡のキリシタン教徒が殉職したこの地は、現在佐渡カトリック教会の共同墓地となっています。

・キリシタン塚(左)とカトリック教会共同墓地(右)
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『佐渡殉教地百人塚の歴史』 案内によれば、
「佐渡に初めてカトリック宣教師が来たのは、1619年」 といいます。

「三代将軍家光の時代に弾圧が始まり、寛永14年秋の島原天草の乱鎮圧以降、キリシタン狩りが強化された。」

「佐渡においても弾圧がおよび、踏み絵等によってキリシタンは摘発され逮捕された。」

「佐渡の歴史が書かれた 『国略記』 や 『佐渡年代記』 によると、
『今年、肥後国島原の乱により、中山と言う所において 《死刑》 を行う・・・・』 と記録されており、1638年の出来事である。」 

「ここ中山峠で殉職を遂げた百人余のキリシタンは、身分の低い貧しい人々であったためか、名前は一切記録に残されていない。」
と、記されいます。

キリシタン広場の横に、「峠の茶屋跡」 がありました。

・峠の茶屋跡の案内(左)と跡地に植えられた桜(右)
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「峠の茶屋跡」 案内には、
「ここに茶屋ができたのは、文化12年(1815)、八百屋町の庄七が煮売りを始めたのが最初の記録である。」

「佐渡奉行の日記に、『相川の町が見えて、8畳とそのほか3間』 の部屋があった。 江戸からの長旅で汚れた着衣を着替えた。」

「唐丸籠で送られてくる無宿者たちに、甘酒がふるまわれた。 しかし 『ここを下れば金山』 といわれて、お代りする者がなかった。」

「今は廃道で、周辺から伊万里、唐津焼きなどが出土する。」
と、記されています。

無宿者たちが甘酒のお代りをしなかったといいますが、相川金山がいかに重労働であったかが想像できる一話です。

また、無限に湧き出る金山の地下水をくみ上げた、水替無宿人の墓(28人)が相川の治助町で静かに眠っています。     合掌

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2008年9月11日

キリシタン塚(1)

佐渡におけるキリシタン殉職の聖地 「キリシタン塚」 は、旧佐和田町沢根から相川町へ抜ける中山峠の山中にあります。

キリシタン塚の話は聞いて知ってはいましたが、聖地は生家の近くにありながら一度も訪ねたことがありません。

・キリシタン塚の案内(左)とキリシタン百人塚記念碑(右)
00_301_2 七浦海岸のドライブからの帰り道、キリシタン塚を訪ねました。
 相川から中山トンネルを抜けて直ぐに、旧県道(中山街道)に入りました。

山道を数百メートルほど走って、途中の四差路に車を止めて聖地に向かって歩きました。

昨夜の雷雨で車の輪立ちが残る山道は歩きずらいです。 大分歩きましたが、途中から不安となり引き返しました。
車の近くまで来た所で一人の村人と出合いました。

・キリシタン塚のキリスト像(左)と聖母マリア像(右)
0305 村人は、
 「キリシタン塚は、この先の山中にあります。」 と、いいます。
 折角訪ねてきたのだからと、再び村人と一緒にキリシタン塚に向って歩きました。
峠の山道はだいぶ歩いたようでも距離は延びていません。
キリシタン塚の手前100ほどの所で引き返していたのです。

「ここが聖地です。 墓地は上の方にあります。 ゆっくりと見学してください。」 と、言って村人は引き返して行きました。 

私一人ではここまで来れずに帰りかけていたのに、道案内をしてくれて本当に有難うございました。
聖地までわざわざ案内をしてくれた村人に、十分なお礼も言わずに別れた自分を反省し恥じています。          (つづく)

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2008年9月10日

二見・台ケ鼻~橘・長手岬

大佐渡の南端、二見半島の先端に高さ12mの台ケ鼻灯台があります。 その昔、灯台下の海辺に下りて海水浴をしたことがあります。

二見の台ケ鼻
02 灯台下の海辺は岩場があって、変化にとんだ海水浴ができます。
 また、沖合に 「双股岩」 の巨岩を見ることができる、景色の素晴らしい所です。

「朝日は伊勢の双股岩、夕日は二見の双股岩」 と、いう話を聞いたことがあります。

 伊勢朝日 佐渡の二見の 夕日かな と、いう一句もあります。

いまは灯台下へ行く道も樹木が茂っていて、海辺に下りることはできません。 双股岩を見てみたかったです。 

二見神社(旧称:中宮大明神)
04 神社の 「由緒」 によれば、 
 御祭神:国常立尊
     (くにとこたちのみこと)
 配 祀 : 右衛門佐御局
 由 緒 : 「中宮大明神は、
 元和元年(1618)京都吉田より補任する。」

「中宮社は、承久帝供養女官右絵門佐御局を祀り、片谷明神または中宮大明神と称したが、上杉景勝の陳代藤田信吉入国の際に無くした。」

「本間摂津守永州所領の沢根羽二生にあった国常立尊を祀るものと併せて現地で祀ることとなった。」

「明治6年(1873)、社号を二見神社と改称した。」
と、記されていました。

二見神社の本殿は、二見港が一望できる高台にありました。 参拝しての帰り道、石段を数えて下りたら153段ありました。

橘の長手岬
07 二見から米郷、稲鯨と変化にとんだ七浦の海岸を北へ向って行くと、橘の集落に入ります。
 日本海に突き出た景勝地 「長手岬」 は、西の海に沈む夕日が美しい所です。 また、海水浴と海釣りが楽しめるところです。

長手岬の先端に建つ灯台までは遊歩道が続いています。
ここ長手岬は、毎年6月初旬には可憐なイワユリが咲き乱れます。

次の高瀬には七浦海岸の代表的な景勝地 「夫婦岩」 があります。

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2008年9月 9日

龍吟寺&八房の梅

旧佐和田町沢根の古刹、曼荼羅寺の峠を越えると真野湾に突き出た二見半島に出ます。

元村と新地の二つの集落がある二見は、真野湾を隔て小佐渡山脈を望む東向きの静かな港町です。
   
004005
新地の集落に入った旧道の右手に、中宮山 龍吟寺があります。

龍吟寺には、国の指定重要文化財 「聖観音菩薩像」 があると聞いて訪ねました。

 <画像上:龍吟寺の山門(左)・大聖観世音菩薩の写真(右)>

寺社帳には、「開基は知れず、天正3年(1575)中興円空再建。」 と、いいます。

境内の 「案内」 によれば、
「寺の本尊は、大聖観世音菩薩で、承久の乱で佐渡に配流された、84代順徳天皇が所持されていたとの説がある。」

「金銅菩薩像は、右手を上げ、わずかに施無の印、左手を下げ与願印を結び、わずかに腰をひねって蓮華座上にすらりと立つ。」

「面相は若々しく明快でかすかに微笑をふくみ正面を向いている。」

「像高:36,4cm、年代:天平時代、素材:金銅造、開帳:33年毎」

「明治44年国宝に指定、その後の改正で国の指定文化財となる。
東京国立博物館、奈良国立博物館等に出展。」
       (以上、要旨 「相川町教育委員会」 案内版より)

33年ごとの御開帳です。 秘仏(写真)は拝観できませんでした。

012_2010_2

龍吟寺から台ケ鼻灯台方面へ数百メートルほど歩くと、道路の右手に 「八房の梅」 の案内板が出ています。 <画像上左>

民家に挟まれた奥に、「鶯鴦梅」(えんおうばい) と書かれた石碑が建っていて、その脇に1本の梅の木があります。 <画像上右>

こちらの 「八房の梅」 の木は、順徳天皇お手植えの木といいます。

この地を訪れた天皇が、村人からのもてなしを受けられたとき、村人から貰ったおにぎりの梅を蒔いたのが 「八房の梅」 といいます。

調べてみましたら、「八つ房又は品字梅(ひんじばい)という種類で、花は単弁、白色、一根に二幹相対しているのでこの名がある。」 と、いいます。

梅の木を見る限り、手入れが十分とは思われません。
大切な史(遺)跡の一つです。 大事に育ててほしいと思います。

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2008年9月 8日

佐渡おけさ

佐渡は芸能の宝庫といわれています。 佐渡で生まれ青少年時代を過ごした私にとっては、優雅で哀調を帯びた 「佐渡おけさ」 は、特に愛着を感じます。

また、「佐渡おけさ」、「小木おけさ」、「選鉱場おけさ」、「相川音頭」、「両津甚句」 など、懐かしい佐渡の民謡を聴くと古里の自然、海や山を思い浮かべます。

2 義理の甥が、夕食会に招待してくれました。
 その時の話の中で、
 「なぎさ会 (民謡保存会)の踊りの衣装が新しくなったのでお披露目したい。」
と、いうことになり佐渡おけさ踊りが始まりました。

舞台衣装は、鮮やかな青い海を表現し、打ち寄せる白い波が染め抜かれています。 品のある素晴らしい舞台衣装です。

三味線を引きながら佐渡おけさを唄うのは義理の甥、唄に合わせて優雅に、かつしなやかに踊ってくれたのは義理の兄です。

・佐渡おけさ
 ハアー 二見 夕焼け三崎が霞む
               真野の入り江に 立つかもめ

 (※古里佐和田の町から眺める波静かな真野湾の風景です。)

 ハアー 霞む 相川夕日に染めて 波もあや織る 春日埼
 (※夕日が美しい相川の台地、春日埼から眺める日本海です。)

・小木おけさ
 ハアー 矢島 矢の竹思いを込めて 主の心を 射止めたい
 (※矢竹がとれる矢島の弓矢で主の心を射止めるのでしょうか。)

 ハー 島の 乙女の黒髪恋し 又も行きたや 花の佐渡
 (※新潟美人多いか少ないかは別に佐渡は何度でも帰りたい。)

・選鉱場おけさ
 ハアー 朝の 早いのにカンテラ下げて
               鉱山がよいの ほどのよさ

 (※鉱山の町相川で、早朝から働く労働者の労働歌でしょうか。)

 ハアー 鶴が 舞います鶴子の山で お山ご繁盛と 舞あそぶ
 (※金山は相川、銀山は沢根といわれた鶴子銀山の唄です。)

<画像下:新調の踊り衣装で踊る義兄とおけさを唄う義理の甥>

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ところで、昔は懇親会や歓送迎会などで、佐渡の出身者と分かると、よく佐渡おけさを唄わされました。

今はカラオケの時代です。 民謡はほとんど唄われなくなりました。
これも時代の流れでしょうか。 ちょっと寂しい気がします。 weep

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2008年9月 7日

南沢疎水道&広源寺

妙円寺から坂道を下って南沢町に入ると、「南沢疎水坑」 の案内板が出ていました。

・南沢疎水坑
10 その案内板によると、
 「元録4年(1691)から数万人がタガネとツチだけで、6年の歳月をかけて掘り抜いた排水坑である。
 鉱山かた南沢まで約1キロの長さがあり、内部は将棋のコマ型である。
 堀内から湧く水は、この坑道を伝わって音を立てて日本海に流れ込んでいる。
 工事の縄引きをした振矩(ふりかね)師(測量師)は、静野与衛門(しずのよえもん)で、元禄時代の測量技術では世界的な工事と賞賛されている。」 と、記されています。

国の指定史跡、中が見られないといいますが、見られないとなお見たくなるのが人の常。 残念です。

「南沢疎水坑」 案内板と道を挟んだ向こうに、広源寺がありました。

・広源寺
13 寺の境内へ上る手前の坂道に、穏やかのお顔をした石仏が並んでいます。
 佐渡は、庶民信仰の対象となる地蔵と観音石仏が多い所です。
 特に、延命、子育て、安産など願かけ地蔵尊、人間の苦悩や悩みを聞いてくれるという地蔵石仏が多く見られます。  

地蔵堂や観音堂を見ると、小さいころに父母のあとについて、念仏に連れていって貰ったことを思い出します。

12 石仏の前を通って狭い境内に出ると、黒い鬼瓦と出合いました。
 黒いどっしりとした重量感のある屋根瓦を見ると、これも子供のころ佐渡で見た能登瓦と、鬼瓦からは祭りの獅子舞と鬼太鼓(おんでこ)を思い出します。

獅子舞と鬼太鼓は、佐渡の秋祭りには欠かせないイベントでした。
広源寺の鬼瓦を観て佐渡の秋祭り(今は春祭り)を思い出しました。

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2008年9月 6日

法輪寺&妙円寺

慶長8年(1603)、上町に 佐渡奉行所 が設置されると、相川の町は本格的な鉱山都市としての町づくりが始まったといいます。

日蓮宗 法輪寺
03 法輪寺の開基は、
 慶長9年(1604)といいます。 
 山門をくぐって直ぐ右手に、大きな石燈籠がありました。
 佐渡金山の重労働に耐えて、水替えの苦役に生き抜いてきた、江戸無宿たちが 寄進したものといいます。  <画像上:本堂の右前にあるのが寄進された石燈籠>

味方与次右衛門一族墓所
05 本堂左手奥の墓地に、大小七基の五輪塔が並んでいます。
 金山初期の山師(金山経営者)だった、味方与次右衛門一族の墓所といいます。
 五輪塔の大きさが違います。
 山師にも、栄枯盛衰があったのでしょうか?  <画像上:味方山師一族の五輪塔>

また、ここ法輪寺の 「金掘り作馬」は、町の民族文化財に指定されているといいます。

日蓮宗 妙円寺
07 日蓮宗の法輪寺から、東へ数十メートル歩いた所に、同じ日蓮宗の法円寺がありました。  
 妙円寺の開基は、
 慶長元年(1596)といいます。
 寺の裏の土地は、山師・味方孫太夫(みかたまごだゆう)が屋敷を構えていた所といいます。

妙円寺 山門
09 鬱蒼とした林の中で、つくつく法師蝉の声が聴こえます。
 山深い坂の上には、
 朱塗りの色鮮やかな山門が建っています。
 また、山門をくぐった右手に、
 二十番神堂が建っていました。

二十番神、三十番神という言葉があるようです。 後学のため、勉強してみたいと思っています。

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2008年9月 5日

浄土宗・法然寺(続)

慶長11年(1606)に、国仲の河原田から移転したという法然寺は、朱色がひときわ目立つ本堂です。

法然寺本堂
05 ここ法然寺には、数多くの史跡があります。
 また、その史跡に案内がついていて、初めて見学する者にとっては、分かりやすくて大変参考になります。
 史跡の一つひとつは、直ぐには覚えきれません。 史跡と案内文をカメラに収めて帰宅し、ブログに書くことによって記憶に留めています。
 
滝波玄伯の墓
14 寺の案内によれば、
 「代々漢方医を勤めた。 先祖は摂津(大阪)の人という。
 寛政8年(1796)に生まれた玄伯は、佐渡奉行所詰医師、医学所世話煎などに任ぜられた。
 文久2年(1862)のはしかの大流行や、嘉永2年(1849)の疱瘡の流行のとき、その治療や種痘の普及に活躍し、奉行岡松久徴から乗駕を許された。」 と、記されています。

佐渡奉行・伊丹播磨守康勝供養塔
16 寺の案内によれば、
 「寛永12年(1635)、幕府の勘定頭兼務で佐渡奉行となり18年勤めた。
 甲州(山梨県)戸倉で一万三千石を領し、康勝の「康」は家康から賜ったという。
 鉱山開発に治績があり、
 『寛厚にして才覚ありし人なり』 (佐渡年代記)と評された。

江戸で死亡したが、この塔は、佐渡の家臣団が建てたもので、相川でもっとも大きい五輪塔である。」 と、記されています。

奉行留守居役・辻八郎太衛門守※
18 寺の案内には、
 「地役人前田六兵衛の次男。 辻家(甲州の出身)の養子となる。
 32歳で留守居役に昇進、在勤中 真野御陵の修築、南沢大疎水工事の開削等で功績を残した。
 晩年は熱心な浄土教融通念仏の信者で露天と号し、享保9年

(1724)4月5日88歳で没した。」 と、記されています。
は、「」に「しんにゅう」の文字です。 漢字が無く読めません。)

ここ法然寺には、相川江戸末期の学者・田中葵園(きえん)や、蔵田茂樹の墓も見られるといいます。
次の寺院巡りを考えていて見落としました。 折角のチャンスを逃し、残念に思っています。

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2008年9月 4日

本典寺&法然寺

大安寺から急な坂道を上って着いたのが、日蓮宗の本典寺です。

下寺町というだけあって、本典寺、観音寺、法然寺、法輪寺、蓮長寺、妙円寺と並んでいます。 先ず、本典寺から参詣しました。

・日蓮宗 本典寺
045_2 元和9年(1623)、豪商・山田吉左衛門が建てた寺といいます。 
 墓地には元禄の奉行・萩原重秀の供養塔と、その子萩原源八郎奉行の墓があるといいます。
 重秀・源八郎両奉行親子の供養塔と墓を探しましたが、探し方が悪かったのでしょうか、見つけることができずに本典寺を出ました。

・浄土宗 法然寺
049 本典寺の左が法然寺です。
 慶長11年(1606)、河原田から移転した寺といいます。
 山門をくぐって境内に入るとすぐ右手に、江戸初期の石仏や黒沢金太郎の墓、大熊善太郎奉行の墓などが並んでいました。

・黒沢金太郎の墓
09 寺の案内によると、
 「佐渡の施釉陶器の元祖。
 代々「金太郎焼」で知られ、多くの日常雑器、茶器を作陶した。
 晩年は浄土宗に帰依して、当時十八世忠誉の弟子になり天保12年(1841)に72歳で没した。
法然寺」 と、記されています。

・大熊善太郎嘉住の墓
11 寺の案内によると、
 「江戸城西ノ丸広敷用人から嘉永5年(1852)2月佐渡奉行になり、翌年2月67歳で相川で病死した。
 武蔵国(江戸)の出身で先祖は大阪の陣で活躍した堀直竒に仕えた。
 幕末、佐渡の近海に異国船がきたころ、海岸防備と、武芸の奨励に治続があった。
後継者は現在東京都大島町波浮港に在す。  法然寺」
と、記されています。

庄吉・おさん 比翼塚
046 この墓は、本典寺の西にありました。
 寺の案内によると、 
 「宝暦6年(1756)10月、当地で心中した紺屋の倅庄吉(32才)と、番匠の娘さん(17才)の墓地。
 “死骸は捨てさらした” と記録にある。
 当時 “おさん・仙次郎心中濃茶染” という くどき(相川音頭)にもうたわれた。

法然寺」 と、記されています。

何か お墓の話ばかりになりましたが、今昔を問わず人にはそれぞれの歴史があります。
その人の歴史を知るには、お墓めぐりも致し方ありません。

金太郎焼は、子供のころに聞きました。 また、佐渡奉行を勤めた人が何人いたかも興味が湧くところです。

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2008年9月 3日

浄土宗・大安寺

佐渡金山で栄えた、相川町の歴史的なことはよく知りません。
そこで今回の帰省は、相川町の史跡巡りにチャレンジしました。

・大安寺山門 
02 海岸通りから相川警察署前の道を、山の方に向かってまっすぐに進みます。
 続いて、山門へ続く石畳の細い急な坂道を上ると、長栄山大安寺の山門前に来ました。


・木喰作の石仏
01 山門手前の石室に、大きな石仏が安置されています。
 言い伝えによれば、江戸初期の 木喰 行者が彫ったものといいます。
 よく観察してみると、中央の石像は大きく、姿かたちが他の石像と違って見えます。


・大安寺本堂
03 大安寺は、慶長12年(1606)、初代の佐渡奉行を務めた大久保長安(おおくぼながやす)が建てた寺といいます。 
 本堂の前に、社会民主々義の先駆者といわれた、森知幾(もりちき)の墓があります。

墓の案内板によれば、森知幾は明治30年(1897)佐渡で最初の日刊紙 「佐渡新聞」 を創刊した人物、と記されています。
 
・大久保長安の逆修塔
06 知幾の墓の奥に、国の指定史跡 「大久保長安の逆修塔」 があります。
 逆修塔は、慶長16年(1611)、長安みずから死後の菩提を弔うために、生存中に建てたものといいます。

長安の死後、家康によって公金隠匿、謀反の計画を持った等の罪によって、一族残らず処刑されたといいます。

この寺には五輪塔や奉行所役人の墓など、史跡が多く残されています。 また、墓地の後ろに密生するタブの木も有名です。

「知ることは愛することの始まり。 ふるさとを知り、ふるさとを愛す」 といいます。
大安寺の訪問で、相川町の歴史の一端を知ることができました。

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2008年9月 2日

鎮目市左衛門

尖閣湾からの帰り道、相川の町はずれの海岸に建つ県指定史跡、鎮目市左衛門(しずめいちざえもん)の墓を訪ねました。

032 「佐渡相川史跡マップ」
によれば、 
 「鎮目市左衛門は、佐渡金山がもっとも繁栄した元和期の奉行を務めた人。」
 「墓は遺言によって、相川の街から離れた海岸に造らせたと言われている。」
「いまの墓は弘化年間に再建されたもの。」

「鎮目は甲州の出身で、関ケ原の合戦では秀忠の旗本に属し、信州の真田攻めに加わり、七本槍の一人として活躍した。」

「佐渡奉行としては、「二割安米の値下げ」 など多くの功績を残し、近年までこの墓の周辺で 「鎮目祭」 が行われた。 」 と、いいます。

市左衛門の墓は、海に近い海岸で西向きに建っています。
その墓の前に、くさびを打ち込んだような不思議な岩 「はさみ岩」 があります。

また、直ぐの沖合には市左衛門の墓を見守るように、青い大きな岩が浮かんで見えます。 尖閣湾からの帰路、新しい発見をしました。

 <画像下:相川の 「はさみ岩」(左)・海に浮かぶ青い岩(右)>

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2008年9月 1日

佐渡・尖閣湾

佐渡海府海岸を代表する断崖絶壁の名勝地 尖閣湾 を訪ねました。

生家からほど近い尖閣湾は、帰省のつど訪ねています。 

015_2 海上から眺める尖閣湾は、
 南から、第1景 「幽玄峡湾
      第2景 「立雲峡湾
      第3景 「金剛峡湾
      第4景 「膳棚峡湾
      第5景 「揚島峡湾
 と五つに区分されています。

 <画像上:中央に笹子洞窟が見える第5景「揚島峡湾」>

今回は、尖閣湾を丘から眺めて見ようと、自然遊歩道を歩きました。
遊歩道の途中に、「佐渡百選」 の看板(下記)が出ていました。

016 島民が選んだ島の宝 23
 「尖閣湾
 達者から揚島までの約2kmの海岸線を尖閣湾という。 
 紺碧の海に屹立する荒削りの断崖と波濤に洗われる珊瑚のダイナミックな自然の造形美は、佐渡を代表する景観の一つ。 「日本の渚百選」 にも選ばれている。 
また、一部は海中公園にも指定されている。
                佐渡百選実行委員会

片道約20分の遊歩道散策、少し海が荒れていたため真の絶景は望めませんでした。
次に来るときは、初夏の黄花カンゾウやイワユリの咲くころに訪ねてみたいと思っています。

今回は、尖閣湾沿いの丘のヒマワリが見ごろと聞いて出かけたのですが、昨夜の雷雨に見舞われて無残な姿でした。 残念です。

<画像下:断崖絶壁の景観(左)・白波が立つ揚島遊園地(右)>

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2008年8月31日

佐渡・姫津大橋

佐渡を代表する名勝地 「尖閣湾」 へ行く途中に、姫津港の新名所 「姫津大橋」 があります。

これまでの帰省では、姫津大橋に立ち寄ったことがなかったので訪ねて見ることにしました。

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大きなカーブを回って坂を下ると、波穏やかな姫津港に着きました。

姫津港から沖の防波堤に向って、半円を描くように大きな橋が架かっています。  <画像上左:防波堤に架かる姫津大橋>

環境保全料200円を払って、姫津大橋の中ごろまでくると、右手に姫津港、左手に波が砕ける岩場と防波堤が見えます。

  <画像上右:大きな岩に砕けて波しぶきをあげる外海>

昨夜の雷雨で姫津港内は濁っています。 しかし、防波堤から沖の岩場には、波が砕けて白い波しぶきが上がっています。

大橋を渡りきると、左に灯台のある岩場、右に防波堤と岩場が続いています。 いずれも磯釣りのポイントと聞いています。

これから秋の釣りシーズンを迎えます。 ここ姫津港も大勢の釣り人で賑わうだろうと話しながら姫津大橋をあとにしました。

 <画像下:防波堤から見た姫津大橋(左)・イカ釣り漁船(右)>

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2008年8月30日

七浦海岸めぐり

生家のある沢根から中山トンネネルを抜けると、その昔、金山の町として栄えた相川の町に出ます。

その相川町から大佐渡に突き出た半島を時計と反対回りに、鹿伏、大浦、高瀬、橘、稲鯨、米郷、二見と七つの集落があります。

・猫 岩
080 相川の鹿伏を過ぎて大浦に向かう途中で 「猫岩」 が見られます。
 うずくまった猫が獲物を狙う姿の岩は七浦海岸の奇岩の一つです。
 <画像左:猫に似る 「猫岩」>


・大浦海岸
001_2 月遅れのお盆が過ぎて、佐渡島には秋の涼しい風が吹いています。
 昨日の低気圧のいたずらでしょうか、今日の日本海は少し荒れています。 
 <画像左:秋の気配大浦海岸>

・夫婦岩(1)
088 高瀬には、七浦海岸の代表的な景勝地「夫婦岩」があります。
 古里に帰れば、生家に近い七浦の海岸めぐりをし、ここの夫婦岩には必ず寄ります。
 大きな岩が寄り添うように見える夫婦岩です。
右が男岩、左が女岩、周りの小さな岩が子ども岩といわれいます。
 <画像上:周りの小岩に囲まれて夫婦仲良く寄り添う夫婦岩>

・夫婦岩(2)
086 これまでは遠く眺めているだけでしたが、今回は女岩の体内くぐりを体験してきました。
 秋風が立ち夫婦岩の周りには、漂流物やたくさんの藻が漂着していました。
 <画像左:夫婦岩の裏側>

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2008年8月29日

佐渡歴史伝説館(完)

今回の帰省で、佐渡歴史伝説館に寄った理由がもう一つあります。 それは売店で働く、チャールズ・ジェンキンスさんと会うことです。

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佐渡歴史伝説館の2階を下りて、京風の日本庭園を眺めながら通路を回り込むと、伝説館に隣接する売店に入ります。

ジェンキンスさんは、その売店の みやげ店 で働いています。

2005年の暮に発行された、ジェンキンスさんの著書 『告白』 を持参してサインをお願いしました。

  <画像上:桃山時代の京風日本庭園(左)・本 『告白』(右)>

09_2 ジェンキンスさんは、日本語を話すのはまだ十分ではありません。 傍らの店長さんが通訳をしてくれました。
 本とサインペンを出すと、快くサインをしてくれました。 サインが終わると記念撮影にも応じてくれました。
 <画像左:銘菓 「太鼓番」せんべい>

記念撮影後、店長さんを通じて 「ブログに載せてもよろしいですか」 の問いに 「OK」 のサインが出ました。

著書 『告白』 は、序章、第1章~第10章、謝辞と略年譜がついた、250余ページに及ぶA5版の図書です。

著者の生い立ちから、軍隊生活、国境越え、曽我ひとみさんとの出会い、家族のことなど一気に読み終わりました。

第10章 「帰郷」 の後半には、
「第二の故郷である佐渡で、ひとみと一緒に幸せな日々を送っていくこと。 娘たちが幸せで充実した人生を歩むこと・・・・。」 とあります。

ジェンキンスさん一家のご多幸を祈るとともに、未だ解決していない拉致被害者家族の早期解決を願うばかりです。

太鼓番せんべいと文庫本を1冊お土産に買って、ジェンキンスさんと握手をして別れました。

<画像下:サイン入りの本と文庫本(左)・店内で記念撮影(右)>

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2008年8月28日

佐渡歴史伝説館(2)

ロボットが演ずる第三景~第六景は、1271年に佐渡配流となった日蓮上人のコーナーです。

特に、第六景の 「塚原問答」 は、集まった僧徒との激しい法論を戦わせる場面は迫力がありました。

第七景:
032 世阿弥・雨乞いの舞
 ある年の夏、佐渡は大干ばつにおそわれたといいます。
 島民の苦しみを見かねた世阿弥は、佐渡国主に雨乞いの舞を申し出て許され、雨乞いの面を彫って舞を舞ったところ、黒雲が出て雨が降り出したといいます。

その雨乞いの舞をロボットが演じます。 舞の途中で面を着け変えて舞う 「法楽の舞」 に見とれました。 

第八景:
033 世阿弥観音 (北村西望作)
 ときの将軍足利義教のいかりにあい、世阿弥元清(72歳)は佐渡配流となりました。
 永享6年(1434)5月、福井県の小浜港から船に乗り、能登半島を回って佐渡の松ヶ埼港に着いたと言われています。
 小佐渡山系を越えた世阿弥は、金井町新保の満福寺に落ち着き、その後、泉の正法寺に移り住んだといいます。

世阿弥は佐渡で 『金島集』 を著わしています。 七章の中の一つに 「時鳥」 の章があるといいます。

ハアー 啼いてくれるな 都が恋し 啼くな八幡の ほととぎす」 という佐渡おけさがあります。

八幡を訪れた順徳天皇が、時鳥の声を聞いて都を恋偲んだと言われます。 世阿弥もここ八幡に来て、都に思いをはせたのでしょうか。

第九景:
035 語り部のおじいちゃん・
      おばあちゃん

 歴史伝説館の2階に民話を語る老夫妻のロボットがあります。

 佐渡方言で語る昔話は、子供のころを思い出させる物語です。

オボエル」 ・・・ おどろく、   「ホシメル」 ・・・・ 羨ましがらせる
ヨンドコネ」 ・・・ はずかしい、 「クジコネル」・・・無理をいう

第十景は、森鷗外の「安寿伝説」、第十一景は、木下順二の「夕鶴伝説」、第十二景は、「おけさ伝説」 のコーナーでした。

佐々木象堂記念館
037 金工家 佐々木象堂
 (1882~1961年)  
 蝋型鋳金の第一人者で、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された、佐渡を代表する芸術家の一人です。
 皇居正殿の屋根飾り 「瑞鳥」 の作者として知られる有名な人です。          (つづく)

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2008年8月27日

佐渡歴史伝説館(1)

ロボットが佐渡の歴史や伝説を紹介する、「佐渡歴史伝説館」 を訪ねました。

美しい日本庭園を眺めていたら、「間もなく開演です。 お急ぎください。」 と、誘われて館内に入りました。

館内一階は、第一景~第七景まで、等身大のロボットが演ずる佐渡の歴史を紹介するコーナーです。

二階はロボットが民話を語る伝説コーナーと、人間国宝 佐々木象堂記念館があります。

館内は撮影自由です。 パンフレットを参考に館内を見て回りました。

第一景:
027 順徳天皇第一皇女慶子女王 
 佐渡でお生まれになった、順徳天皇の第一皇女ロボットです。
 舞台に明かりが入ると、扇でお顔を隠した状態から前に進み出て、穏やかなお顔で、もの静かに佐渡の歴史を語り始めました。

第二景:
028 順徳天皇・配所の月
 承久の変で敗れて佐渡に配流となられた順徳天皇ロボットです。
 京の都へ帰ることなく、46歳の若さで崩御(1242年)された順徳天皇は佐渡在島22年といいます。
 郷愁を誘う秋の夜でしょうか。
 ロボットではありますが、もの静かに空を見上げる様は、いつの世も変わらぬ情景を見せてくれました。

第三景:
030 順徳天皇絵巻物語
 御所から佐渡配流までの情景を絵巻物で見せてくれます。
 パンフレットにあった画像と同じ場面をカメラに収めましたが、画像が斜めに収まっているのが残念です。

・日蓮上人坐像
031 第四景前の通路に、日蓮上人坐像がありました。 
 佐渡で書かれたという、日蓮上人の三大誓願文 『開目抄』 が坐像の後ろにあります。
 「我日本の柱とならん、我日本の眼目とならん、我日本の大船とならん」               (つづく)

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2008年8月26日

小木~真野へ

“ハアー 北は 大佐渡 南は小佐渡ョ あいの国仲 米どころ” と、
佐渡おけさに唄われる小佐渡から大佐渡に向かって走りました。

・人面岩
021 小木港から羽茂経て真野に入ると会いたい奇岩があります。
 沈む夕日が美しい、越ノ長浜の人面岩です。 
 静かな真野の入り江で待ち人顔の人面岩を眺めていると、故郷を離れた私には特に郷愁を誘う奇岩です。  <画像上:真野の入り江で待人顔の人面岩>

・瑞 鳥 (ずいちょう)
022_2 佐渡歴史伝説館チケット売り場の屋根に一対の瑞鳥がいます。
 皇居新宮殿の棟飾りとして、
 人間国宝 佐々木象堂(1882~1961)が制作した 「瑞鳥」 のレプリカです。
 <画像左:瑞鳥(一対の一つ)>

ここ佐渡歴史伝説館には、鋳金家 佐々木象堂記念館があります。

・龍王岩伝説
024 チケット売り場から橋を渡って直ぐの右手に、昇り龍のモニュメントがあります。 ここは佐渡歴史伝説館入館記念の撮影ポイントです。
 昇り龍の下には、「龍王岩伝説」の案内板があります。
 <画像左:記念撮影ポイント>

・阿新丸(くまわかまる)
026 承久の変ののち、佐渡に配流となった父、日野資朝を訪ねて京都から来た阿新丸の物語です。
 斬罪にあった父の仇を討ったのち、追手から逃れる際に竹にすがって壕を飛び越える様を表現したものです。
<画像上:逃げ延びる阿新丸(妙宣寺近くには「隠れ松」がある)>

阿新丸は、のちに後村上天皇に仕えて父資朝と同じく、中納言まで進んだといわれています。

ゲームなどがなかった子供の頃、生家の竹藪で阿新丸のまねをして遊んだことを思い出させるモニュメントです。

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2008年8月25日

直江津~小木へ

同窓会に出席する妻と二人、3年ぶりに佐渡島へ帰省しました。

・埠頭に接岸中のこがね丸
001 国道18号~上信越自動車道と走って、午前8時30分ころ直江津埠頭に着きました。
 直江津~小木航路は、
 大型旅客カーフェリー こがね丸
 (9,504トン全長120,5m)が就航しています。

9時30分、直江津港を出港したこがね丸は2時間30分の航海を経て、12時10分小木港佐渡汽船の岸壁に接岸しました。

・直江津に向かうこがね丸
006 佐渡の南玄関口小木は、
かつては北前船の寄港地として栄えた港町です。
 12時50分、こがね丸は再び直江津に向かって出港します。
 そのこがね丸を見送ったあと近くのレストランで昼食をとりました。

・入り江に浮かぶたらい舟
013 佐渡汽船埠頭の南側に、たらい舟の乗り場があります。
 観光客バスが来て、桟橋は大勢の人で賑わっています。
 小木の入り江に、観光客を乗せた たらい舟が沖合に幾つも浮かんでいます。

以前、屋島・経島の入り江で詠んだ一句を思い出しました。
    たらい舟 こぎ出す沖へ 蝉しぐれ  昭一

・菅笠屋根のあづまや
016 小木の入り江に突き出た、城山公園下の渚を散策しました。
 蝉しぐれとともに、潮の香りと葛の花の甘い香りが漂ってきます。
・小木おけさ
 小木の入り江も 静かに暮れて
      とまり舟より 立つけむり
古里佐渡島に帰省したという実感が湧いてきました。

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